一瞬の風景に、永遠を仮託する。
私はいま、リヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』を聴いている。楽曲は、夜明けと共に始まり、登山、頂上、嵐、そして再び夜の静けさへと戻る。これは一種の人生譚であり、哲学的交響詩だ。
だが私は、この作品を楽譜通りの“登頂物語”としては受け取っていない。
私の人生には、決まった「頂上」は存在しない。どこかに向かっているようでいて、実際にはただ、登り続けているだけだ。そして、ある瞬間ふと足を止めて、その場の風景を頂上と仮定する。「いま見ているこの景色こそが、きっと頂上だ」と。
それが自己満足だということもわかっている。だが、それを虚像とは思わない。それはむしろ、理性的に選び取られた“仮の目的地”だ。そこで休む。静かに。音楽のように。
『アルプス交響曲』は、自然の写実ではなく、沈黙と響きの連続である。そのなかで、登山道はときに滑り、風景は消え、嵐が襲い、また晴れる。この音楽には、明示的な教訓も、予定調和的な結末もない。だからこそ私は、そこに自分の生き方の写し鏡を重ねる自由を持てる。
音楽は「この音が何を意味するか」を説明しない。そして私もまた、「この人生がどこへ向かっているのか」を説明しない。
現代社会は“頂上”の幻影で満ちている。万博、五輪、イベント、表彰、ランク――どれも「頂点に意味がある」と言いたがる。だが私は、『アルプス交響曲』にこそ本物の文明批評があると思っている。音楽が語るのは、「ただ登れ」ということだ。見せびらかすな。解説するな。ただ、耳を澄ませよ。
頂上を目指すのではなく、登り続けることに自足できる精神。それが、音楽的であり、哲学的であり、そして文明的だ。
この交響曲の終わりには、再び夜が訪れる。静かで、穏やかで、すべてを包み込むような音。それは敗北ではなく、反復される存在への帰依である。私もまた、頂上なき山を、再び歩き出すだろう。ときどき、足を止めて風景を頂上と呼び、それを否定せずに受け入れ、また、登り始める。
音は消えても、登山は終わらない。それが、私にとっての『アルプス交響曲』である。