● 「超民主主義」は“内なる敵”
民主主義が脅かされると、人々はつい「外敵」を探す。陰謀論、外国勢力、移民、AI、あるいは“怪しいあの政党”…。だが、本当の敵はもっと静かで、もっと近くにいる。それは「民主主義を信じすぎる者たち」――超民主主義者である。
超民主主義とは何か?
それは、「全員に発言権を!」「誰も排除してはならない!」という正義の暴走だ。誰もが主役、誰もが対等、誰もが傷つかない――まるで幼稚園のお遊戯会で国家を運営しようとする幻想。ルールを破った者も、誹謗中傷を繰り返す者も、「表現の自由です」。少数派の権利を守りすぎて、多数派が発言できなくなる。その結果、何も決められない。何も止められない。だが、文句だけは誰より言う。
これが制度の内側から腐食していく“内なる敵”=超民主主義である。
カール・シュミットの「例外」概念に照らしてみよう。シュミットはこう言った。「主権者とは、例外状態を決定する者である」と。平時には誰も気づかない。だが危機のとき、“誰が最終的に決めるのか”が問われる。
今、我々はその危機にある。しかも“誰もが主権者になりたがる”という異常事態。例外を宣言すべき者が、全員に配慮し、忖度し、判断を放棄している。つまり――主権の空洞化こそが、超民主主義の末期症状なのだ。
トランプ的存在は、その“真空”を突く。トランプはその真空を嗅ぎ取り、「神に選ばれし者」「俺が例外だ」とされると宣言した。“主権者不在の民主主義”を、“俺という決定者が支配する国家”に置き換えようとした。それはまさに、「委任独裁」である。
いささか醜く、乱暴で、分断を煽るが、少なくとも“決定”はできる。
現代民主主義を蝕むのは、戦車でもテロでもない。「全員が正しくて、全員が王様」だという、内なる神話である。そしていま、この“内なる敵”に対して、誰が“例外”を宣言するのか?誰が「決定の権利」を取り戻すのか?そこにシュミットが言う真の「主権者」が現れる。

● 日本人のSNSにおける政治的投稿の傾向
日本のSNS上での政治的投稿が、人物(Who)に焦点を当て、物事(What)に関する検証や論述が非常に少ない。その主因は、分かりやすさにある。政治家の個人的な言行やスキャンダルは、直感的に理解しやすく、感情的な反応を引き出しやすい。一方、政策や制度の詳細は複雑で、理解には時間と労力を要する。そのため、SNS上では手軽に消費できる「人物」ネタが好まれる傾向がある。
日本の教育システムでは、暗記や受動的な学習が重視され、批判的思考や分析的思考を養う機会が限られている。その結果、政策や制度の詳細を深く分析し、論理的に議論する能力が十分に育まれていない。SNS上でも、浅薄な理解に基づく感情的な投稿が目立つのは、このためであろう。
さらに、日本社会では、調和や集団の和を重んじる文化が根強く、異なる意見を公に表明することに対する心理的ハードルが高い。そのため、具体的な政策批判や制度に関する深い議論よりも、一般的な人物評や感情的なコメントが無難とされ、SNS上でもその傾向が反映されている。
これらの要因が絡み合い、日本のSNS上では「人物」ネタが氾濫し、政策や制度に関する真剣な議論が影を潜めている。この現象は、国民の政治的成熟度や民主主義の質にも影響を及ぼしているのではないだろうか。
● 思索の自由
思想の自由と、思索の自由は、まったく別物である。にもかかわらず、現代人の大多数はこの違いに気づいていない。
思想の自由とは、自分が何を信じ、何を主張するかという「結論を持つ自由」であり、いわば意見の表明や信仰の選択の問題である。それはあくまで「結果」に対する自由であり、多くの近代国家が保障してきたのは、この「結論の自由」にすぎない。
一方、思索の自由とは、「問い続ける自由」であり、「疑い、保留し、立ち止まる自由」である。そこには、明確な結論や意見は存在しない。むしろ、結論を持たないことを恐れず、矛盾を抱えたまま考え続けるという苦痛に耐える覚悟が求められる。それゆえ、思索の自由は、社会的には歓迎されず、しばしば不安定・危険・非効率と見なされる傾向がある。
現代社会は、思想の自由を手厚く保護する一方で、思索の自由を静かに排除してきた。SNSやメディアは「明快な意見」や「即断即決の態度」を称賛し、「結論に至らぬ思索」を無意味として切り捨てる。結果として、人々は「自分の意見を持つこと」ばかりを奨励され、「なぜその意見に至ったのか」「本当にそれが正しいのか」を問う機会を奪われている。
この構造のもとでは、思想は「自由な選択」ではなく、単なる「刷り込み」や「同調」にすぎなくなる。そして、思索のプロセスを経ない思想は、もはや思想ですらない。ただの記号、スローガン、部族的記憶の反復である。そうして社会には、確信に満ちた愚者ばかりが量産される。
哲学とは、思想の自由を前提にするものではない。哲学の本質は、思索の自由そのものである。ソクラテスが追求したのは「何を信じるか」ではなく、「いかに問うか」であった。プラトンもまた、対話という形式を通して「答え」ではなく「問い方」を提示した。真の哲学とは、結論を求めるのではなく、問う姿勢そのものを生きることである。
ゆえに、思想の自由が残っていても、思索の自由が失われた社会は、見かけ上は開かれていても、実質的には閉じている。そこには異論を唱える自由はあっても、異論を理解しようとする精神がない。問いを立てることなく、正解を競い合う社会では、知性は育たず、ただ正義を叫ぶ群衆だけが残る。
思索の自由を失った国家は、思索なき信念によって、ついには自壊するしかない。




