志願型奴隷、日本社会の畜群が受難する時代へ

 「Willing Slave」という英語。日本語に訳せば、「進んで奴隷になる人」。私は「志願型奴隷」と呼んでいる。

 古代人は身体の自由を奪われて他人の奴隷になるが、これに対して、現代人は思考の自由を放棄して自分の奴隷になる。奴隷とは、人格が否定され、自由を剥奪されることを意味するが、基本的に受動的な喪失である。しかし、後者、現代人は異なる形態で、自らの意志によるものである。

 日本社会のサラリーマン制度といえば、自由の放棄と引き換えに生涯にわたる保障を得る。そうしたトレードオフである。「社畜」といわれるだけに、どうも「志願型奴隷」の部類に入っているように思えるが、必ずしも全員がそれに該当するわけではない。奴隷船に乗船していても、途中経過で変化が見られたりする。

 少数ながらも脱出願望と脱出力をもつ優秀な奴隷がいる。彼たちの高生産性で大多数の奴隷を食わせている。彼たちが明らかに他の奴隷と異なるのは、脱出願望だけでなく、脱出技能を裏付ける思考力をもっていることだ。つまり、彼らは思考の自由を放棄していない「偽奴隷」なのだ。

 大多数の正真正銘の「志願型奴隷」は、「奴隷の解放」を望んでいない。彼らに共通する特徴がある。それは、考える力を喪失し、思考の自由を放棄し、従う本能だけが機能しているということだ。ニーチェの言葉で表現すると、畜群(独:Herde)というグループに属する。

 奴隷船が沈没しそうになると、沈没を引き伸ばすために、早期下船してくれる奴隷にインセンティブが出る。そこでまず手を挙げるのが偽奴隷たちだ。彼たちは荒波と戦いながらも、ついに新天地に漂着したりする。

 最後まで難破船にしがみつく本物「志願型奴隷」たちは一番悲惨だ。世の中、強制的に自由を与えられる奴隷ほど惨めなものはいない。これからは、奴隷解放の時代であり、畜群が受難する時代でもある。

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