政治参加は「高尚な行為」でなく、「経済的・心理的行動」だ

 政治は理念「そのもの」ではない。理念は道具であり、二つの用途に分解される――。
 第一に、利益(権力・金・地位・安全)の正当化装置。
 第二に、個人や集団が抱える不満・恐怖・優越感・被害意識を放出するための感情処理装置。

 政治的理念の真偽や正誤は重要ではない。政治は、その使われ方で価値が決まる。政治より先にあるのは利害と感情で、理念はそれを包む包装紙にすぎない。政治参加は「高尚な行為」ではなく、「経済的・心理的行動」にすぎない。

● 政治的理念よりも経済的利益

 「立花さんは政治を論じても、政治的理念よりも、結局は経済的利益ばかりじゃないか」と言われた。

 その通りだ。私は経営コンサルタントであり、同時に思想家だ。政治を見るとき、空を舞う理想論ではなく、現実に何が起き、人間や企業にどんな影響が出るのかを見る。だから必然的に、経済的利益を読むことになる。それが現実だからだ。

 むしろ、政治家のほうがよほど経済的利益で動いている。選挙、予算、業界票、利権。政治理念だけで動いている政治家など、まずいない。偽右も偽左も同じである。イデオロギーの顔をしているが、実際は怒りや恐怖や承認欲で動いている。理念の話をしているように見えて、その実、感情のはけ口にしているだけだ。

 私は利益を見る。しかしそれは、思想がないからではない。逆だ。思想を現実に使うなら、損得から目をそらしてはならない。理念と利益は別物ではなく、現実の中ではつながっている。私は実務型思想家だ。だからこそ、政治も利益も、人間の行動原理として冷静に見ていく。それだけの話である。

● 外国人問題、シンガポール vs 日本

 例を挙げよう。外国人問題の本質は、国によってまったく違う。

 シンガポールの外国人問題は、持ち込まれた巨額資産のマネロン懸念だ。カジノ資本、ファミリーオフィス、富裕層の洪水。悩みの質がそもそも金が多すぎて困るである。一方、日本の外国人問題は、健康保険の不正利用、軽犯罪、観光地の秩序破壊。つまり、コストだけ増えてリターンがないという、極めて地に足のついた悩みだ。

 前者は、文字どおり嬉しい悲鳴。後者は、純粋に悲しい悲鳴。

 だが、ここで面白い真実がある。仮に日本にシンガポール並みの巨額資産が雪崩れ込んでも、日本人は結局同じように文句を言うだろう。理由は単純。日本人は金額ではなく、「異物そのもの」が嫌いだからだ。異文化、異習慣、異民族。量や質の問題ではなく、存在そのものが気に障る。だから富裕層でも技能労働者でも、受け止め方はほぼ同じ。

● 「理」よりも「情」、政治も「情」

 合理より情緒が上位にある社会では、経済利益は心理的快適圏に勝てない。日本社会は「理」より「情」を優先する設計なので、合理性で動く人間は必然的に浮く。情緒優先社会では、正しさより「空気への適合」が重視される。合理は空気を壊すため、正しくても嫌われる。つまり、合理的な人の合理性は欠点ではなく、日本社会の情緒的均質性にとってのノイズとして認識されるだけだ。

 偽左も偽右も、看板は政治思想だが、実体はすべて情緒の発火装置にすぎない。彼らの主張は理念でも政策でもなく、「自分の不安・怒り・承認欲求の処理」だ。だから左右の違いは思想ではなく、どちらの情緒に寄生しているかというだけの差になる。

 偽右は怒りを燃料にし、偽左は恐怖と正義感を燃料にする。どちらも論理ではなく情動の発露で動くため、議論は成立しない。事実を突きつけても無意味で、情緒の回路に届かないからだ。

 つまり、彼らの政治参加は政治ではなく、情緒の自己完結儀式だ。イデオロギーをまとった心理反応であり、合理的判断は最初から存在しない。左右の対立に見えて、実は同じ構造の鏡像である。情が支配すると、政治は思考ではなく感情の劇場になる。これが日本の偽左・偽右の根底にある病理だ。

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