「同等」と「同様」を取り違えたマレーシア生活コスト論

 「マレーシア移住、驚きの生活コスト」(2026年1月2日、東洋経済オンライン)という記事は、情報提供として一定の価値はあるものの、論理上の致命的な誤りを含んでいる。その象徴が「日本と同等の生活をしようとするとコストが上がる」という命題である。この命題は、事実認定の問題ではなく、概念使用の誤りである。

● 「同等」と「同様」の取り違え

 「同等」という語は、等級・品質・水準が同一尺度上で比較可能であることを前提とする。そこには暗黙の上下関係、すなわち日本が基準であり、マレーシアはそれに追随する側だという序列意識が含まれている。しかし、生活とは本来、単一軸で上下比較できるものではない。

 住環境を例に取れば明白である。広さ、緑、静けさ、可処分スペースといった点において、マレーシアの住宅環境は日本を明確に上回るケースが多い。ここで「同等」という言葉を使うこと自体が、現実認識を歪めている。

 著者が本当に言いたかったのは、「同等」ではなく「同様」であろう。

 すなわち、日本人が日本的生活様式――外国人向けショッピングモール、輸入品中心のスーパー、ブランド志向の消費動線――を、そのままマレーシアに持ち込もうとすれば、生活コストは上がる、という話である。これは事実である。しかしそれは、生活水準が高いからではない。単に、選択している生活様式が割高なだけである。

● 上等の食材と良いコスパとは

 さらに問題なのは、「外国人も利用しやすいモール内スーパーは上等で、地元の食料品店は下位である」という暗黙の前提である。

 これはマレーシアの流通構造を知らない者の典型的な誤解である。実際には、地元市場、専門店、さらには卸売業者へと川上に遡るほど、品質は上がり、価格は下がるという逆転現象が珍しくない。地元店で、モール内スーパーよりも明らかに上等な食材を、しかも卸値に近い価格で入手できることは日常である。

 我が家の場合、地元店ですらなく、さらに川上の卸売業者から直接購入しているため、高級スーパーには並ばない最上等品を、驚くほどのコストパフォーマンスで手に入れることも多い。これは特別な話ではなく、マレーシア生活の「奥」に入れば自然に見えてくる風景である。

 結局のところ、この記事が描いているのは「マレーシアの生活コスト」ではない。描かれているのは、「マレーシアにいながら日本を再現しようとする外国人の消費行動」である。その前提に立てば、結論が歪むのは当然である。

● 海外で日本を再現する愚

 日本を再現したいのであれば、マレーシアに来る理由はない。本場の日本に残るのが、品質面でもコスト面でも、最も合理的である。日本的生活様式、日本的消費動線、日本的サービス水準を前提にする限り、マレーシアは常に「割高で不完全な代替物」になる。これはマレーシアの問題ではなく、比較の前提を誤っている側の問題である。

 海外移住とは、本来、生活の再現ではなく、生活の再設計である。日本を基準に同等性や再現性を求めた瞬間、その移動は失敗が約束される。マレーシアで意味を持つのは、日本を持ち込むことではなく、日本を一度手放した上で、現地の構造・流通・住環境・時間感覚に最適化した生活を組み直すことだ。

 日本を再現したい人がマレーシアに来て不満を語るのは、畳を持ち込んで砂漠に文句を言うようなものである。場所を変えたのに、思考と行動を変えていない。その不一致こそが、違和感と割高感の正体である。

 要するに、日本を生きたいなら日本にいればよい。マレーシアを生きる覚悟がない限り、移住は豊かさではなく、ただの不便なコスプレに終わる。

 要するに、これはマレーシア論ではない。まだマレーシアの奥を知らない書き手による、初期段階の観察記録にすぎない。掲載媒体が 東洋経済オンライン であるかどうかは本質ではない。問題は、比較の軸を誤ったまま、「同等」という言葉を安易に使ってしまった点にある。

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