和僑会関連の話をしていると、フェイスブックにこんなコメントを寄せられた――。
「華僑は生きるために自然発生的にできた名称であり、組織ではない。 組織として作り上げている和僑とは、性質が全く異なり、そこに違和感を覚える」
本質を突いた言及である。華僑総会や華商総会たるものは確かに自然発生した利益集団の後付け的な「追認型組織」といえよう。さらにその組織は政治に浸透し政治で経済を制するという意図も持っていた。これは決して看過できない。
2015年6月23日付のマレーシア華字紙「人民郵報」は、香港の学者・陳雲氏の「華僑都市国家論」を紹介した。氏はマレーシア政府に、華僑・華人が集中する都市を国家化し、新たな「Federal Member State」(連邦構成員州)の結成を呼び掛けた。いわゆる「準シンガポール」の都市国家の結成だ。さらに、「中国はマレーシア政府と協議し、一部の華人都市を都市国家化し、そこで香港は都市国家の身分で南洋で政治や貿易を行い、海洋中華の構築に協力していく」と政治的意図を明確に披露した。
華僑を真似するかどうかは別にしても、「華僑」を強く意識した「和僑」の会であれば、華僑の本質を見抜かずにして真の発展が語れるのだろうか。少なくとも華僑型の発展は難しいだろう。直感的に言ってしまえば、「狩猟型」と「農耕型」の相違だ。ただし、両者に正誤の判定は存在しない。「日僑」ではなく、「和僑」にこだわったのもムラをベースとした農耕コミュニティーに必要とされる協力関係に価値が置かれたからであろう。
それは何も間違っていない。このような「和僑」の概念であれば、コミュニティーの構成員において物心両面の強い連帯が必要不可欠だ。脱落者を出さないという心配りだけでなく、資源の共有ないしある意味で収穫の公平分配も必要になってくる。
海外のどこにいっても、「県人会」たるものが存在する。定期的に勉強会や飲み会を催し、一気飲みの掛け声に熱中する人、わいわいやっている間に名刺を配りまくって日本人向けの商売に精を出す人…、最後に三三七拍子か一本締めかでほろ酔い気分でクライマックスを迎えるのも何と微笑ましいことか。
厳しい狩猟社会である海外の地に、平和な農耕的なオアシス、その束の間の平和を求める日本人にとって、そうした会はそれなりの存在価値がある。