年頭のご挨拶~≪特別レポート≫ベトナムや中国の人事管理現場における「4つの力」

 2016年、新年明けましておめでとうございます。

 中国やベトナム、日本そしてアジアにおられるエリス・コンサルティングのお客様、関係者の皆様に、新年のご挨拶を申し上げます。皆様、新年はいかがお過ごしでしたか。私は「職住分離」で居住ベースをマレーシアのクアラルンプールに移してから、これで3回目の新年を迎えることができました。

 年頭挨拶といえば、毎年長文の「特別コラム」をお届けするのが通例ですが、いよいよ少々困ったことがありました。それは、これまでにほとんど中国関連の題材でしたが、昨年12月にベトナム版の経営レポートも創刊されたことです。

 この年頭コラムも両版分けて書こうかどうかで散々迷った末、まとめて合同版として書くことに決めました。その理由を申し上げますと、まず個人的に怠け者であって、2回書くのが大変だったからです。もう一つ、いざ別々に書こうとすると、意外にも共通する部分もたくさん出てくることです。だったら、まとめて書いてしまいましょうと。中越両国におられる経営者や管理陣の皆様にある種の情報交換の機会を提供するという意味においても有益ではないかと、いささか大義名分を得て自画自賛を始めたところでございます。

 いま、私がクアラルンプールに住んで、中国、ベトナム、そしてその他のアジアという3つの塊の仕事を引き受けています。日本企業の経営における共通点はもちろんたくさんあります。ただこれらをしかるべき文脈で完璧につなげていくにはもう少し時間の積み上げが必要なのかもしれません。それまでには、あまりまとまりのない雑談という形で書かせていただければとお願いしたい、そう考えた次第でございます。

 今回は、中国やベトナムの人事管理現場における「4つの力」について書こうと思います。これまでは各種のセミナーや講演会、一部のレポートで単発的なトピックとして、断片的に取り上げたことが何度かありましたが、一貫性を持たせてきちんとした文脈を作って書いたことはありませんでした。

 遠心力、求心力、粘着力、そして牽制力――この「4つの力」は、人事労務管理現場の基本的なメカニズムとして、中国やベトナムに限らず汎用性のある知です。その原理を実務的に分かりやすく説明するために、私は独自に「4つの力」という形にまとめ上げました。特に中国やベトナムという儒教・社会主義国の特徴も折り込んで解説させていただき、皆様と情報の共有ができれば幸いに思います。

 皆様にとって2016年は素晴らしき一年でありますよう、心からお祈り申し上げます。

立花 聡
2016年元旦

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≪年頭コラム≫ベトナムや中国の人事管理現場における「4つの力」

● ベトナムと中国の類似点~社会主義と儒教

 昨今、中国から多くの日本企業がベトナムに移転している。企業管理の現場からも、「ベトナムと中国はよく似ている部分がありますね」という声がよく聞く。どこが似ているのだろうか。

 中国とベトナムの共通点といえば、社会主義(共産主義)と儒教。私はマレーシアに移住し東南アジア業務も手掛けてから、基本的に人事を3つの系統(部門)に分けて考えるようになった――儒教系、仏教系とイスラム系(一部儒仏が絡み合っているところもある)。儒教は宗教よりも一つの哲学系統である。諸子百家時代に法家が儒家に負け、儒教が中国社会と周辺文化圏のイデオロギーになり、今日においても絶大な影響を与えている。

 企業経営や人事について基本的なところは、イデオロギー、価値観、思考回路の問題である。従業員の自律形成を目指す上でこのへんの課題をクリアしないといけない。

 何よりも、まずわれわれ日本人自身のことをよく知る必要がある。われわれが物事を見る立脚点をよく知る必要がある。

 たとえば、儒教の「忠」と「孝」。中国人もベトナム人も「忠」よりも「孝」を大切にするが、日本人はどうしても「孝」より「忠」を優先するので、会社に対する忠誠心という基本概念の段階でまず大きなギャップを作ってしまうのである。

 さらに、中国やベトナムの「孝」は共産主義思想の影響を受けて、いささか変質してしまっている。特に中国の場合、文化大革命によって一度「孝」よりも「忠」(政治的要素)を上位に持ちあげ、イデオロギーの混乱を引き起こし、その後遺症が今日まで引きずっている。そこで改革開放やドイモイでいきなり資本主義のメカニズムを導入すると二転三転、混乱に混乱を重ね、大混乱状態に陥ったのは中国とベトナム。

 「人事を制する者は、経営を制す」。私が中国の経営現場で常に言っていることは、ベトナムにも適用する。 

● 「忠」と「孝」の問題と日本人の「組織」思考

 「忠」と「孝」の問題にもう少し突っ込んでいこう。

 同じ儒教のルーツをもつ日本はなぜ、中国やベトナム、あるいは韓国と違った「忠」と「孝」の優先順位をもったのだろうか。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科・高橋俊介教授はその研究でこう述べている。

 「武士たちに儒教精神を徹底させるとともに非常に重要な『刷り込み』が行われた。社会を安定させるために、幕府は『孝』と『忠』を意識的に逆転させたのである。 『孝』とはつまり親孝行の孝であるから、家へのコミットメントを指す。『忠』というのは『殿』つまり、雇い主に対するコミットメントである。日本では、この2つの価値観の優先順位が逆転したことで、親よりもお殿様に仕えることが重要視されるようになった。明治に入ると、この刷り込みが庶民にまで普及していく。きっかけはテクノロジーの発達と国民皆兵である」

 「忠」という価値観の元で、日本人は家族よりも、会社つまり「組織」というものを中心に物事を考えるようになった。「組織」に忠誠を誓い、家族やコミュニティの中で過ごす時間を軽んじてきた日本人ビジネスパーソンの姿は、中国人やベトナム人の目にはむしろ異様に映っているだろう。

 だが、いくら異様に見られたにしても、日本人の「忠」を批判する中国人やベトナム人は皆無である。

 「会社のため」という言葉を連発する日本人上司がいても、決して反論されることはない。なぜなら、それは間違っていないからだ。儒教の教えでは、「忠」も立派な要素であるからだ。反論や批判の対象には当たらない。

 ただ試してみるといい。中国人やベトナム人に、「忠」と「孝」の優先順位、「会社」と「家族」の優先順位を聞いてみるといい。日本人がまじめな顔をして聞いていると、向こうも本音を引っ込めて、「それはどっちも大事です」と慎重に答えを選ぶのかもしれない。だから、できれば現地人を使って本音を探るといい。

 「孝」より「忠」が大事、そして「家族」より「会社」が大事だという中国人やベトナム人、いままで私は一人も見たことがない。

 残業をやりなさいといっても、時間になるとさっさと会社を後にする。家族の一家団欒が会社の仕事より重要であり、「忠」よりもまず家族に対する「孝」を優先する。これは非難されるべきではない。現地従業員にとってみればこれが常識であるからだ。

 常識を批判する日本人のほうが非常識である。繰り返しいう、中国やベトナムでは、日本人が利益単位とする「組織」の概念は存在しない。「組織」に対する忠誠心を評価の基軸にすることはナンセンスだ。

● 「会社のためだ」、教義の罠に堕ちる原理

 「私は会社のために考えている」――。

 「忠」よりも「孝」、「会社」よりも「家族」。このような価値観をもつ中国人やベトナム人の口からある日、この一言が飛び出すと、要注意だ。

 それがもし本人の本音ならばかなりの異端児である。そうでなければ、嘘をついていることになる。その確率や蓋然性を考えればむしろ、嘘と判断するほうが合理的であろう。

 いや、ちょっと待った。その辺乱暴な結論にしたくない。例外もある。それは本人あるいはその一族の利益と会社の利益が一致している場合、その回答が真っ当である。利益は一致するだろうか。そこはもう一つの罠が待っている。

 個人の利益と会社の利益が一致していると考える日本人がいるからだ。日本の場合、戦後の高度成長期と完全確約の終身雇用制度を背景に総論的な利益の一致もあったのだろうが、しかし各論的にいうと、特に現今の諸状況を見ると、必ずしもそうとは限らない。

 それでも、多くの日本人サラリーマンは「忠」優先の価値観のもとで、懸命に「会社のため」に頑張っている。善悪の基本的な判断基準からしても、「会社のため」という教義に異を唱えるものは基本的にいない。いや、いてはならないのだ。

 この辺の事情を見抜いている中国人やベトナム人が「会社のため」を持ち出す理由は、まず日本人がその大義名分に反論できないところにある。反論をできなくするには、相手の信条や価値観、主張を持ち出すのがもっとも効果的である。反論不能にしておけば、自分の主張がすんなりと通るからだ。

 実効性の高い手法である。

 たとえば、改革の一環として会社は新しい賃金制度を導入しようとする。すると、某現地マネージャーは、「私個人的には、新制度は大変良い制度だと思います。導入に賛同です。ただ、新制度にはみんな(部下)が不安を感じて動揺しています。このまま導入すると、会社を辞める人もどんどん出てきます。そこで業務に支障を来します。私がこう言うのも会社のためです……」

 誰が不安を感じているかというと、まずそのマネージャー張本人だったりする。業務の成果をより厳しく精緻に評価する、このような流動的な成果型賃金制度の導入に不安を感じたり、自信がなかったり、あるいは既得利益の流動化に反対だったり……、ただ自分の口では言えないので、部下という「みんな」の口を借りていう。大義名分は「会社のため」だ。

 このような中間管理職がいたら大変だ。彼らは職場にもどって部下に新制度を丁寧に説明するどころか、「みんな」の反対を喚起する煽動工作に余念がない。

 「私は会社のために考えている」ではない。「私はやはり私のために考えている」。少なくとも、会社利益よりも個人の利益を優先する。

● 拝金主義の原点

 中国人の拝金主義傾向は周知の通りである。では、ベトナムどうだろうか。

 「ベトナムでは、基本的に金があれば何でもできる」。あるベトナムのインテリ経営者がこういう。あまりにも露骨な表現には驚きながらも納得する。

 中国人やベトナム人の拝金主義を堂々と批判する日本人自身はどうであろうか。80年代後半のバブル期を経て、90年代に入ると、「金こそすべて」の風潮がじわじわと日本社会に浸透しはじめた。2000年頃から市場競争を中心とした新自由主義が取り入れられると、拝金主義の拡散がより一層加速した。

 では、なぜ日本人にも拝金主義が拡散したかと、その経緯を見るとバブル期における金銭欲と物欲の膨張と、戦後長く続いた安定成長期の終結と生存競争の激化がその背景にあったことが分かる。

 金銭の威力をまず知ってしまった。そして、決まった人生軌道に乗り、そこそこの努力さえすれば生涯の生活が保障されている、そんな時代が終わると、日本人は焦り出し明日の糧を心配するようになる。その不安を埋めるために眼前の生活はもとより、家族や将来のためにも蓄財をせねばならぬことに気付く。余裕がなくなったから、拝金に走る。そういうことである。

 では、中国やベトナムはどうなのだろうか。両国とも社会主義の歴史を有している。社会主義時代では基本的に均等(平等)な貧困な生活を強いられていたものの、その代わりに競争もなくあまり浮き沈みのない人生を送ることが定番コースになっていた。

 それが中国では改革開放政策、ベトナムではドイモイ(刷新)政策が取られ、両国とも揃って社会主義体制を維持しつつも、資本主義の市場経済を導入した。閉ざされた社会主義の地に、資本主義というパンドラの箱が開けられた瞬間に、民衆がそれに飛びつく。人間の本能で抑圧されてきた物欲が一気に噴出するのがごく自然の現象ともいえる。

 ただ、社会主義の下では、貧困を均等に共有できても、富のそれができない。資本主義の市場経済に伴うし烈な競争そのものよりも、社会主義時代から引きずってきた国家公権力に起因する資源の独占がその競争をスタート地点で不公平なものにしてしまっている。

 将来の保障を喪失したまま、不公平や競争に駆り出された民衆はやがて蓄財が唯一の担保であることに気付き始める。その辺は日本人の拝金主義の発生経緯と単純な類比ができない。類似性がある一方、中国やベトナムの場合、より短期間に急激な社会制度の変化といった動的要素が絡んでいる以上、より急進的なものになっている。

 十分な社会的保障がない。雇用慣習も企業の雇用制度も、そもそも日本の正社員雇用に類似する生涯設計になっていない。であれば、現地従業員は当然ながら、短期的な蓄財の最大化に走る。

 より高い給料を出してくれる企業に躊躇なく転職してしまう。日本人で現地従業員のそうした「無節操」な行動に批判的な姿勢を取る人が多いが、しかしこの現状は残念ながら変えることは困難である。

● 借りた時間と借りた場所、「感情」と「勘定」

 中国人やベトナム人の現地従業員に組織への帰属性を求めてはならない。

 組織への帰属感は文化や慣習の蓄積、社会制度の形態によって醸成されるものであり、人為的にそれを作り出すことができない。少なくともその作業に莫大なコストがかかることは間違いない。そもそも、われわれ日本企業が何のために中国やベトナムに来ているのであろうか。

 中国人やベトナム人を変えるためにこの地にやってきたのだろうか。違う。われわれは企業経営者であり、宣教師ではない。会社に利益を出すために異国の地に来ているのであって、他国民の思想や価値観を変えたり、布教のために来ているわけではない。

 中国で十数年や二十数年やって、ああ、コストがめちゃくちゃ上がったから、ではベトナムへ移ろうと。今度このベトナムでもしばらくやって、そのうちコストも同じく上がるだろうから、またキャラバンのように今度ミャンマーやインド、あるいはもっと遠いアフリカの地を目指して産業を移動するのであろう。

 移動する度に行く先ごとに、われわれが現地従業員の一人ひとりが組織に帰属すべく、彼らを教育し、改造するのだろうか。その合理性はまったくない。合理的な経済人はそういうことをしない。むしろ、現地従業員側のほうが実際に合理的経済人として、日本企業の宿命をよく見抜いている――。

 借りた時間と借りた場所である。日本企業にとっての中国やベトナムは、それ以上でもそれ以下でもない。

 借りた時間と借りた場所である。現地従業員にとっての日本企業もまた然り。それ以上でもそれ以下でもない。

 借りた時間と借りた場所である以上、「感情」よりも「勘定」だ。「情」よりも「理」、つまり「合理性」の文脈の形成に全精力を傾注するべきであろう。

 もう少し分かりやすくいえば、現地従業員がある日系企業に入って、個益と社益の一致性があって、そこからある種の帰依感が生まれると、これがもっとも理想的な状態である。

● 「安心」という罠

 そこで罠が待っている。多くの日本人経営者が見事にこの罠にはまった。

 「現地従業員が安心して働ける会社にしなくては」、某現地日系企業の社長がこういう。経営者としてその熱い思いがずしんずしんと伝わってくる。

 「安心」とは何か。日系企業なら解雇される心配はない。給料が下がる心配もない。一旦手に入れたポストから外されたり降格される心配も基本的にない。

 もしこれが日本企業のメリットであるならば、ちょっとどこかが違わないか。優秀な従業員がこうして安心して働いてくれるとよいのだが、そうではない従業員、適任や適格ではない従業員がやたら安心してぶら下がってくれると、それは会社が困る。

 その通りだ。対象者次第である。従業員が無差別一律に捉えるべきではない。たとえ、いまこの時点で全員が優秀な従業員であっても、明日も明後日も将来にわたり永劫不変というわけではない。組織そのものが流動性に満ちた有機物である。

 はっきり言おう。もし、構成員全員が「静態的安心」に包まれる組織であれば、この激変の時代に取り残されるにはそう時間はかからないだろう。

 日本企業は従業員のクビを切らないし、給料も下がることはない。このような「安心」で入社する従業員もいることだろう。借りた時間と借りた場所に、安泰に過ごせる安心感があればこれ以上いいことはない。

 このような悪しき安心感が蔓延すると、頑張ってどんどん成果を出していく従業員は不公平に思うようになる。もっとも大きな問題は、彼らはその不満を口に出して言えないことである。「何なのそれ、君は自分ができるからといってでしゃばってみんなを困らせるのか」と、即刻社内で叩かれ村八分を食らうのである。それだけでなく、日本人経営者が提唱する「安心」原則にも反するから、四方八方から被弾し潰されるのが目に見えている。

 優秀な従業員がこのメカニズムを知ってしまうと、次に出る反応は仕事のペースを落とすか、時期を見計らって会社を辞めて転職するかである。真に悲劇である。

 従業員全員が安心して働ける会社が存在したのは、高度成長期の日本だけであって、少なくとも借りた時間と借りた場所である中国やベトナムには、それが存在しない。これからも存在し得ない。

● 全員納得の会社制度は存在しない

 全員が幸せになってくれるほど良いことはない。

 「全員が納得するような会社制度で運営したい」。多くの日本人経営者は世界でも類を見ない民主主義信奉者であろうと私は信じて疑わない。けれど、これは通用するのだろうか。特に中国やベトナムにおいて。

 権利を増やし、義務を排除する。権利には賛成、義務には反対。

 ――これは従業員がいかなる会社制度に対する基本的な立場である。自然の摂理でもある。特に借りた時間と借りた場所となるとなおさらだ。たまたま企業と従業員の利害関係が一致する事項は賛成する。自分自身の利益に反していればいろんな形でそれに反対する。

 全員が納得するような会社制度というのは、全員の利益を最大化した制度である。それなら、金をばらまけばもっと簡単だ。いや、それも簡単ではない。まず、利益の最大化という仮説は存在しないのである。なぜなら、人間の欲には基本的に上限がない。1000ドルの給料が1200ドルになった時点で大喜びするが、その喜びと高揚感は1か月足らずで消え、今度1500ドルや2000ドルがほしくなるものだ。切りがないから、上限や最大化も存在しない。

 次の問題。金をばらまいても、そのばら撒き方には必ず不平不満が出る――不公平だ。均等に分配したら、貢献の多い人が文句を言う。論功行賞をやったら今度、その評価が客観的ではないとか何とか不公平だという苦情が出る。

 だから、全員が納得するような制度は世の中どこにも存在しないし、存在し得ない。全員納得、あるいは全員利益最大化というのは最善の正論ではあるが、理想化された正論である。実現不可能な正論がたとえ最善といえども、空論にすぎない。実務においては実施可能な次善が求められる。

 従業員の経営参加、コーポレート・ガバナンスのレベルで語られて久しい。労働福祉事業団総務部総務課長・濱口桂一郎氏は次のように述べている(「日本ステークホルダー社会か」より引用)

 「ヨーロッパでも、コーポレート・ガバナンスという言葉でもって議論している人たちは、株主の権限をどうやって確保していくかという話が中心テーマだ。労働の話と切り合わせるようなかたちでの議論をしている人たちがいないわけではないが、ごく少ない。そういう意味では、この議論はアメリカ発の議論として舞台に上ってきているのはたしかだろう。しかし、ヨーロッパでは戦後すぐから、労働者代表を企業経営に参加させることを追求してきた。これはかならずしもコーポレート・ガバナンスという言葉の領域にふくまれないかもしれないが、労働者の権利を確保するシステムを営々とつくりあげてきた。そこへアメリカから、株主主権が企業の本来あるべき姿だという議論が流れてきた。そこで、われわれは長年労働者の経営参加というやり方をやってきたのであり、むしろこのやり方を強めていこうという議論を、コーポレート・ガバナンスという言葉でもって考えるようになってきたようだ」

 「……(中略)それでは日本はステークホルダー社会かというと、たぶんそうではないだろう。株主の権限が相対的に抑制されているという意味ではヨーロッパと共通しているようにみえるが、中身の構造はどうなっているかというと、労働者はたぶんステークホルダーを超えて、会社の『社員』、いわば国民国家の国民に近いところまでいっている。あるいは、いっていると思い込んでいた。ところが、最近のなりふりかまわぬ人減らしリストラの強行をみていると、それが少しずつ崩れつつあるように思われる」

 このように、従業員の企業における位置付けをよく吟味すると、日本と諸外国の根本的な異質性に気付くはずだ。

 中国やベトナムの場合、市場経済の歴史がわずか20年程度。それも国家公権力の介入が大きくそもそも本物の市場経済といえないような代物である。長い社会主義政権、計画経済下だった中国やベトナムの労働者の大多数は公務員的な発想しか持ちえず、資本主義的な「コーポレート・ガバナンス」や「ステークホルダー」云々(資本主義社会においても、うまくいっているとはいえない)語れるまではまだ相当な時間が必要であろう。その辺性急なアプローチは禁物だし、また日本的な全員参加も短絡的に考えるべきではない。

● 従業員の意見の聞き方

 かといって、従業員の意見に耳を傾けなくていいかというと、そうではない。いや、正反対に現場の声を十分に拾い上げる必要がある。言いたいのは、建前ではなく、従業員の本音である。

 意見を聞く場合、いろんな聞き方がある。「はい、あなたの意見を聞こうか」となると、返ってくる意見は100%本音という保証はない。嘘とまで行かなくとも建前が混在していることが多い。そこで建前と本音、嘘と真実の選別、仕分けをしなければならない。フィルターをかけるということである。

 「皆不安を感じている、反対している、業務に支障が出る」。会社の制度改革に対し、こう意見を述べる中間管理職がいる。そこで掘り下げてみたい――。皆とは全従業員の何パーセント?どのような人が反対しているのか?なぜ反対するのか?どのような不安か?なぜ業務に支障が出るのか?どのような支障か?リスク回避策とは何か?……。

 論理的な問題抽出や解決アプローチによって、事実の真相は必ず解明される。もしかすると、不安を感じ、反対しているのは、その中間管理職自身なのかもしれない。前述の通り、マネージャーなどの管理職は「みんな」という大義名分を担ぎ出す場面がある。「みんな」の悪用や濫用はないか、十分に留意したい。

 従業員が反対すれば、施策ができなくなるような企業では、本物の経営は存在しない。民意迎合だけではなく、時には民衆が嫌なことでも政策を決定しなければならないのは、真の政治家。企業経営もまた然り。

● 求心力と遠心力の関係

 「この会社をいつでも辞められますか」

 私はいろんな日本企業の幹部や幹部候補研修を引き受けているのだが、研修クラスの冒頭には大体この質問をぶつけている。しばしば驚かれる。企業の求心力を求める研修で、何でそんな突拍子もない質問をするのか。

 会社を辞めてもすぐに転職したり、独立創業したり食べていける力を持っていない人は、どうやって会社を経営するのか。「会社を辞められる」とは、「会社を辞める」ではない。会社を辞める気力も、迫力も、胆力も、能力も、知力ももたない経営者は、到底経営者といえないのである。

 「いつでも会社を辞められる」人たちが会社の中核になり、その人たちが本当に会社を辞めたらどうするのか。会社は潰れるのではないか。そんな心配をしている会社は良い会社と言えるのだろうか。

 従業員が会社を辞める力は一種の遠心力。その遠心力をもつ従業員たちをいかに引き留め、定着させ、なおかつ最大限にパワーを発揮させるか、これは、会社の真の求心力である。

 会社と従業員のこの「求心力」と「遠心力」は、常に一種の緊張感を形成しつつも、程良いバランスを保ち続ける。――これは理想的なベスト状態である。

 会社を辞めたらすぐに路頭に迷い、それゆえに会社を辞められない幹部や従業員をたくさん抱え込む会社はあたかも、求心力があるように見える。だが、実はそれが求心力ではなく、単なる「粘着力」である。そして、その粘着力が低下し、消失する日には雇用も会社の経営も崩壊する。

 産業突然死、企業突然死の時代である。日本国内でさえ従来の正社員雇用制度の下において、定年までの安泰はもはや保証できなくなった。激変の時代を生きるためには、一人ひとりのサバイバル力が欠かせない――。つまりは、会社をいつ辞めても困らない力、「遠心力」である。これは一人の人間にとってもはや最強かつ最大な財産である。

 企業にも同じことがいえる。「中国依存」は、一種の粘着力であり最大のリスクでもある。これに対し「中国脱却力」は、最大のパワーであり貴重な遠心力でもある。ただ、「粘着力」から「遠心力」へのシフトは大変な苦痛を伴う作業であり、すべての企業や個人が堪えられるものではない。

 中国を脱却しても、ベトナムに移ってやっていける日本企業。あるいは将来、ベトナムからまたどこかの国に移動しないといけないときがやってくるかもしれない。そこでどこへ行ってもやっていける日本企業はサバイバルの持ち主である。――これこそが企業経営の極意であろう。

● 粘着力

 会社と従業員のこの「求心力」と「遠心力」は、常に一種の緊張感を形成しつつも、程良いバランスを保ち続ける、というのがベスト状態である。

 ただ、一つ誤認してはいけないことがある。会社にいわゆる安定を求め、向上心も失い、ぶら下がっている従業員は、基本的に「遠心力」を持たない。前述の通り、会社を辞めないのも会社の「求心力」ではなく、ただの「粘着力」が作用しているからである。このような「粘着力」は非常に危険である。往々にして「安心して働く」とか「安定雇用」とか、そういった「善」として誤認されることが多いから、たちが悪い。

 「粘着力」は硬直化を意味する。硬直化した組織は、時代や経営環境の変化に順応できなくなり、変化に抵抗を示すようになる。そうした組織が時代に淘汰されるのも時間の問題だ。

 会社と従業員の間に必要な「求心力」と「遠心力」の話に戻そう。

● 「教えっぱなし」と「学び逃げ」、遠心力と求心力の与え方

 中国もベトナムも、向上心ある現地従業員は少なからずいる。勉強が好きで、中に進んで会社に学習の機会を求める人もいる。そこで注意深く見てほしい。それは、彼らは何を勉強したがっているかである。

 その多く、いや、そのほとんどがおそらく、企業特殊スキルよりも汎用スキルの学習を渇望しているのではないだろうか。

 スキルには、特定の企業でしか通用しないスキル(企業特殊スキル)と、業界や企業を超えてどこで働いても、あるいは事業を起こして企業を経営しても広く通用する汎用スキルがある。

 企業特殊スキルは、各企業によってそれぞれ独自のものがある。特定の企業でしか通用しないといっても、同業他社の限定された職位で通用するものも一部含まれている。ただ、通用性が低いため、いざその企業を辞めるとなると、転職先はそう多くなく、キャリアアップの機会も限定されている。

 それに対して汎用スキルは、一般的ビジネススキルから高度な経営スキルまで広範囲に及び、業界や企業を超えて通用性が高い。入社前研修や新人研修、中間管理職研修ないし経営者研修といったプログラムまたはOJTによって身につけて行く。中には、MBA(経営学修士号)や公認会計士資格といった高度な専門スキル、学位、資格も含まれている。

 多くの従業員が企業特殊スキルよりも汎用スキルの学習を望んでいる。その主因の一つは、汎用スキルのポータブル性、つまり可移動性である。いつ目先の会社を辞めて次の会社へ転職しても、汎用スキルならはそのまま持っていけるし、そのまま使える。そうしたメリットが大きい。

 言ってみれば、従業員が汎用スキルを積めば積むほど、その従業員の「遠心力」が大きくなる。いつ転職しても困らない。受け入れてくれる会社がたくさんある。もしかすると、転職の勧誘や引き抜きがすでに来ているのかも知れない。

 せっかく育った人材がすぐに会社を辞める。日系企業においてよく見られる人材流出の多くが、この種の従業員の「遠心力」に起因するものである。では、これをどう防止、阻止すればよいのか。方法は二つある。

 まず一つは、「遠心力」を作らない方法。業務内容や職位、従業員個人の素質やそのキャリアパスによって必ずしも誰にも「遠心力」を持たせる必要があるとは限らない。中にはたとえば、数年周期で一定の流動性を求められる職位もあったりする。つまり、「遠心力」と「求心力」の均衡作用を必要としない職位である。

 次に、「遠心力」を付与しながら、「求心力」をも作り、「遠心力」と「求心力」の相互均衡を求めていく方法である。特に中核人材や幹部候補の育成になると、この「遠心力」と「求心力」の均衡関係は欠かせないものとなる。

 繰り返しになるが、従業員側から見れば、自身の利益に立脚して必ず後日も使え、ないし一生を支えるポータブルな汎用スキルを求める。そこで、企業側はその従業員の将来的キャリアや所在職位の内容特性を吟味し、しかるべきジャッジをしていくわけである。ただ単なる一方的な「教えっぱなし」では、「学び逃げ」という人材流出は必ず発生する。

 中国やベトナムでは、汎用スキルの習得に会社が投資しても、その恩恵で従業員が離職を躊躇するケースはごく稀である。奇跡に近い。

● 牽制力の構築、「信頼」と「裏切り」の関係

 「遠心力」、「求心力」、そして「粘着力」について、それぞれの力の位置付けと関係、与え方を論じてきたが、最後に触れておきたいのは、「牽制力」。

 ベトナム現地でよくある話だが、「中核従業員は大変信頼できる人で、その人からの紹介で近親者を相次いで採用したところ、社内の近親者同士が結託するようになった」。そこからは派閥ができ、また不正行為に走るとか、最悪の場合会社まで乗っ取られてしまうとか、いろいろと展開していく。

 中国の場合、これも似たようなケースが多い。「信用できる中国人に経営を託したところ、いつのまにか自分一族が経営する関連企業から調達を始め、莫大な不正利益を手にした」。それだけでなく、いざ処分しようとしても確固たる証拠がない。そこで無理して解雇すらできないので、法外な補償金を積み上げてようやく会社を辞めてもらった。

 などなど、その類のネタが尽きない。

 「信用していたのに、信頼を裏切られた」。被害者になった日本企業の経営者には、まず「信用」と「信頼」の真義を考えてほしい。「信じて使う」、そして「信じて頼る」という「信用」や「信頼」だが、ポイントは「何を持って信じるか」という前提である。ここでは、信用される方と信用する方の2つに分けて考える必要がある。

 1つ、信用される方。長い付き合いのなかで積み上げてきた実績がある種の根拠にはなるが、ただ、人間は変わるかもしれない。過去の実績は、未来に対する参考に過ぎず、担保にはならないのだ。人間関係は静態的な関係ではなく、動態的な関係である。さらに、中国やベトナムの場合、その従業員一人だけの話ではなく、一族単位で物事を考える必要がある。中には、本人は良い人だが、一族の誰かの意思と教唆によって不正に手を染める事例もある。

 もう1つ、信用する方。「信用」や「信頼」は、無防備の丸投げを意味しない。まず、「裏切られない」ための予防措置と、「裏切られた場合」を想定したリスク対策の二つを準備しておく必要がある。この辺は、すぐに日本人は性善説や性悪説の議論になるが、その議論は偽りの命題である。どうしてもいうのなら、法律や契約、会社の規程その類のものがすべて「性悪説」の産物になる。これが「性悪説」だとすれば、当然の「必要悪」である。逆に、経営者の無防備が会社に対する無責任にほかならない。

 「信用」や「信頼」というのは、「裏切られても大丈夫だ」という完全なる自己防衛を前提とした余裕なのであり、決して「性善説」の冒険や賭けではないのである。

● 正論を語る人に要注意

 「……であるべきだ」「……しなければならない」

 中国人やベトナム従業員で正論を語る人が多い。本コラムの前半にも少し触れたが、この類の人間はまず警戒の対象としよう。正論を語る人ほど怖いものはない。正論には誰もが反対できないからだ。使い方によっては、私利私欲を貪るには都合のよい盾にさえなるのである。

 世の中、正論は大切だが、もっとも大切なのは正論の実現方法である。実現不能の正論ならたとえそれが最善であっても、理想論では意味がないからさっさとそれを放棄し、実現可能な次善を探したほうが現実的かつ建設的だ。が、この現実的な「次善」を訴える人は往々にして大衆受けにならず、表舞台に上ることがない。民主主義国家の政治も皮肉だが、しばしば典型的な事例になる。

 たとえば、日本国内の原発問題。まっすぐ見れば、「反原発」は正論である。現時点の安全性の問題だけでなく、次世代、将来の子子孫孫に対する影響を考えると大変怖い。では、原発を全廃しよう。それが最善だ。では、原発を全廃した場合、日本はどうなるのか、国民の生活にどのような影響が出るのか。エネルギーの輸入に障害が生じた場合の対応や代案は果たして大丈夫かと。いざ一人ひとりの個益となると、「総論賛成、各論反対」にならないか。

 人間は、人のことを非難・批判し、正論(べき論)を語るのが一種の本能である。非難や批判は決して悪いことではない。ただ、それと一緒に改善案を提示しないと、ただ無力で非建設的な批判になってしまう。そして、もっと怖いのは、「正論」を語る人。誰もが反論できない正論を語りつつも現状は一向に変わらないし、肝心な正論を実現する方策一つ提示できないまま、ただひたすら正論に酔いしれる。

 「正論」をスローガンのように語り続けると、そのうち、一種の「イデオロギー」になる。「イデオロギー」とは、政治や社会のあるべき姿についての理念の体系であり、分かりやすくいうと、「べき論」である。イデオロギーは何もマルクス主義のトレードマークではない。ミクロ的に、我々が置かれる社会の至る所にみられる。

 「正論」を語る人は、3種類に分けられる――。

 その1、正論実践派。正論を淡々と語り、あるいは正論そのものを余計に語ることなく、正論実現に向けての課題を洗い出し、解決方法を提案し、一つひとつの障害を排除しつつ、正論実現の道筋を立て、正論を実現させる。時には正論に疑問を投げかけ、ゼロベースの思考回路をもって論理的に分析し、場合のよっては現実にそぐわない正論に対し修正を行うこともある。

 その2、正論教条派。ひたすらスローガンのように正論を教条的に語り続ける。いざ、どうすれば正論が実現できるのかという段になると、一向に提案できないし、あるいは抽象的な「べき論」に終始する。時には上記の「正論実践派」の提案を批判し、反対する。かといって、それより良い代案を出せるかというと、何も建設的かつ具体的な提案ができない。

 その3三、正論濫用派。正論を私利私欲のために濫用する。雇用を守れと正論を声高に叫ぶその張本人が実は、もっとも競争力がなく組織にぶら下がっている人間だったりするのもまさにその典型的な事例である。大義名分を担ぎ出し、誰もが反対できない「正論」や「善」を武器に自身の私利、既得利益を守り抜こうという魂胆である。

 だから、やたら正論を語る従業員には注意深くウォッチする必要がある。

● 「変えられるもの」と「変えられないもの」

 「変えられるもの」と「変えられないもの」。われわれ人間は知らないうちに、「変えられないもの」に文句を言い、愚痴をこぼし、非難をし、被害者となり、悲壮感に満ちた悲劇のヒーローやヒロインへと変身していく。

 しかしながら、「変えられるもの」は苦痛を伴うだけに、これを無視し、放棄し、敵視し、あるいはその存在すら知らないうちに、多くの機会を殺してしまっている。

 世の中には、「変えられるもの」と「変えられないもの」が存在する。「変えられないもの」をばさばさと切り捨て、「変えられるもの」をどんどん変えてゆく、このような勇気をもちたい。そして、何よりも、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見分ける知恵をまず身につけたい。

 戦略とは何か、一言でいうと「やること」と「やらないこと」を決めることだ。「やること」を決めるのが比較的に簡単で誰でもできるが、「やらないこと」を決めるのは誰でもできることではない。だから、手順的にはまず、「変えられないもの」、「やらないこと」を見極める。これが第一歩である。

 中国やベトナムの経営現場では、「変えられるもの」とは何か、「変えられないもの」とはまた何か。これをじっくりと見極め、「やること」と「やらない」を決めていくと、2016年をそんな一年にしようではないか。

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