年頭のご挨拶~≪特別レポート≫卵は一つのバスケットに入れるな!分散・分断型経営の薦め

 2017年、新年明けましておめでとうございます。

 アラビア半島、オマーンの首都マスカットから、新年のご挨拶を申し上げます。

 中東湾岸諸国視察中。年末年始の休暇を使って、クウェート、バーレーン、オマーンとアラブ首長国連邦(UAE)という中東湾岸4か国を回っています。中東や産油国の話から始まっていろいろ思いつきの雑想で、今年の年頭コラムとさせていただきます。

 それ故に、コラムは結論を導き出すまでは産油国の問題などを中心に一見あまり関係のないような話が続きますが、文脈をたどるうえで、しばらくお付き合いいただき、最後まで読んでいただければ幸いに思います。

 皆様にとって2017年は素晴らしき一年でありますよう、心からお祈り申し上げます。

立花 聡
2017年元旦 オマーン・マスカットにて

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≪年頭コラム≫卵は一つのバスケットに入れるな!分散・分断型経営の薦め

● オイルマネー頼み、死なき死の宿命

 年末はどこかのビーチリゾートでのんびりしたかった。でも、中東へ行こうと決めた。大した観光地でもない湾岸諸国へやってきた理由はいろいろある。その1つは、原油安下の国家運営はどうなっているのかと、この眼で見て、体感を得たいという衝動に駆られたものである。

 原油安が続く中、中東湾岸の産油国はいよいよ財政の悪化と向き合う局面に入った。どんな金持ちでも収入の稼ぎに問題が生じれば、資産を食い潰すことになる。個人なら死ぬまで食い潰せる資産があれば問題ないが、国家は違う。死はないから大変なのだ。

 死はないから死が怖い。死なき死の宿命が怖いのである。

 昨年3月にクウェートは、10%の企業収益税と5%の付加価値税の課税などを含む経済改革計画を発表した(2016年3月15日付アル・ハヤート紙)。クウェートといえば、ほとんどの企業収益に対し無税で、個人にも税は課されていない。突然の課税への政策転換は何を意味するか。

 石油収入以外の収入源の確保と非石油収入の増収、財政赤字削減がもはや急務となった。政府の介入を減らし、経済活動における民間セクターの比重の引上げなどの施策が不可欠だ。

 クウェートだけではない。アラブ首長国連邦(UAE)は、2018年に5%の付加価値税を導入する準備に入った。バーレーンもガス料金や医療保険料を値上げするなど、各国は相次いで財政引き締め策を導入し始めた。

 湾岸の産油諸国は一貫して、国民に税金免除や補助金給付、公共サービスなどを大盤振る舞いし、政権への支持を得てきた。財政緊縮策によって補助金の削減や課税の強化に踏み切れば、国民の不満が広がり、経済問題が政治問題へと発展するのが必至だ。

 こういう状況のなか、湾岸諸国はこれから、どのようにサバイバルしていくか、問題解決の糸口はどこにあるか。中東問題に限らず、中核的リソースの変異に伴う危機からの脱出という一般命題に、少しでもヒントや答えを見つければと考えている。

 これが私の中東視察の主たる課題である。

● ブルネイにおける石油資源ベースの政権運営

 実はこの視察の原点は、産油国のブルネイにあった。一昨年の5月、連休を使って私がブルネイ視察に出かけた。視察の主題は、次の3つである。

 ① 石油という天然資源に恵まれる国の統治・運営戦略の考察。
 ② 石油という天然資源を失ったときの国家運営上におけるリスク管理の考察。
 ③ 国家を企業に置き換えたときの、企業経営における啓示と考察。

 三重県と同じ大きさの国土しか有さないブルネイ。その豊かさを支えているのは石油と天然ガス資源である。働かなくても石油が出る限り、暮らしていける。いや、贅沢に暮らしていけるのだ。まるで代々資産家の家とサラリーマンの勤労家庭、資源国と非資源国、生れつきのこの天然格差。公平といえるのだろうか。気がつくと、自分の内心に芽生える妬みの感情を一生懸命抑えようとする自分がそこにある。

 資源の乏しい我が日本。資源のために戦争を起こしたといっても過言ではない。もし日本がブルネイのような資源国だったらどうなっていたのだろう。なんてことはありえないし、考える意味もない。それよりも、ブルネイが日本のような非資源国になったらどうなるのだろうか。

 「ブルネイは世界でも屈指の金持ち国家」というが、それは国・国王と一部の特権階級であって、広義的な国民ではない。一般的な市民は至ってごくごく普通の生活を営んでいるし、市内を走る車もシンガポールや香港に比べて高級車の絶対数が断然少ない。他の東南アジア諸国と比較して唯一の特徴は、貧困層の少なさではないかと思う。

 社会的保障が付く、公務員を中心とする格差の小さな国、ブルネイ。これが非常に重要なポイントだ。ある意味で日本人が平均的な理想とする価値観に近いかもしれない。

● 共同体内の格差、平等と不平等の関係

 2010年6月朝日新聞社が発表した全国世論調査である事実が判明した――。

 「経済的に豊かだが格差が大きい国」と「豊かさはさほどでないが格差の小さい国」のどちらを目指すかでは、「格差が小さい国」73%が「豊かな国」17%を圧倒的に上回る。

 ――日本人は、総量の豊かさよりも、格差の解消と平等に価値が置かれたことである。同世代や同期入社の人から年収では倍ないし数倍の格差をつけられることに、違和感を覚え抵抗を感じる。一方、少数の特権階級が数百倍や数千倍の格差をもって、想像もできないような贅沢な暮らしを享受している現象はどうかというと、それは雲の上の人間たちで見えないだけに実感が湧かない。

 人間は心理学的に、「非日常的不平等」よりも、「日常的不平等」が受け入れ難いものだ。

 そうであれば、ブルネイは日本人が目指す国の理想像ともいえよう(イスラム教の部分は別として)。鳩山元首相いわく「日本人もブルネイに移住したいだろう」という仮説は成立することになる。

 だが、資源貧国の日本は逆立ちしてもブルネイにはなれない。国土や領海に石油や天然ガスがぶくぶく湧いてくれれば、国民の共同財産になる。そこで、田中さんが頑張ったからと言って田中さんの庭からたくさんぶくぶく湧くし、中村さんが頑張らないから少なく湧いてあるいは湧かなくなる、そういうことはない。

 国土や領海内にぶくぶく湧く資源は国民の共同財産として均等に分配するのが理にかなっている。特権階級は自身を除外して、国民間に格差をつけないのが極めて当然の論理である。

● 共同体の4つのタイプ

 世の中の国・社会(広義的共同体)は、4つのグループに分けられる。均等に富む「均富」、均等に貧しい「均貧」、均等の中産である「均中」、そして問題の「格差」社会である。付け加えると、「均貧」も「均中」も、一握り少数の、雲の上にいる特権階級は一定の、時には絶大な格差をもって君臨している。ただ庶民にとってそれが身近にいないため、「非日常化」で処理されているだけだ。

 そこで、「均富」社会はほとんど実在しない。現に、「均貧」、「均中」、「格差」からの選択、位置付けと相互転化になる。中国は「均貧」から30年かけて「均中」を飛び越えて、いきなり「格差」社会に突入した。日本は戦後40年かけて「均貧」から「均中」へ、さらにその後30年かけていまは「均中」から「格差」への転化を遂げようとしている。

 日本人が望んでいるのは、「均貧」でも「格差」でもなく、「均中」なのだ。その「均中」状態の維持は、資源の存在や持続的成長を前提条件とするだけに、今の日本はこれらの条件をほとんど持ち合わせていない。

 ブルネイは今日にも、「均中」状態が維持できているのは、ひとえにぶくぶく湧き出る石油と天然ガスのお陰にほかならない。その資源が枯渇した日、あるいは代替エネルギーが普及した日、ブルネイはどうなるのだろうか。

● 単一資源と収入源が枯渇したとき

 ブルネイは、ラスベガスよりも産業構造・基盤が脆弱だ。賭博産業はいつまでもやっていけるが、石油や天然ガス資源はいずれ枯渇し、あるいは新エネルギーによって取って代わられる。

 ナウル共和国。国家規模や経済総量、社会構造がブルネイと異なるものの、類似性参考事例として見てほしい。南西太平洋に浮かぶナウルは、リン鉱石の採掘によって富を成した島国だ。世界で最も高い生活水準を享受し、税金なし、医療・教育無料、年金保障をはじめとする手厚い社会福祉を国民に提供していた。これは今のブルネイに大変似ている。

 しかし、20世紀末にナウルの鉱石資源が枯渇した。基本的インフラ維持も困難となった同国の経済が崩壊し、近隣国のオーストラリアやニュージーランド、そして日本に援助を求めるほか活路はなかった。

 ここからは注目に値する展開になる。中華民国(台湾)と国交を持っていたナウルは2002年7月にその国交を断絶し、中華人民共和国と国交樹立。そこで中国から1億3000万ドルの援助を引き出した。しかし僅か3年後の2005年5月に今度中国と再び国交を断絶し、台湾と復交した。翌年、台湾の援助を手に入れた。

 ナウルは中台の政治・外交駆け引きのカードに自ら成り下がったのであった。国家崩壊に陥ったナウルの教訓に学ぶものが多い。ナウルでは最終的にほぼ国民全員が労働の義務から解放され、リン鉱石の採掘も外国人労働者に任せきり、国民の総資本家化となったのだった。リスクを取って事業を興す意味が見出せないし、ガツガツ働くことも美徳とされなくなれば、人間は勤労意欲を失う。

● 共同体構成員の勤労意欲の低下と喪失

 ナウルはあまりにも極端のケースで、ブルネイや中東諸国とそのまま比較するには必ずしも妥当とは言えないが、共通している部分は、国民の勤労意欲の低下・喪失である。

 国民は勤労生活をもって自らの手によって富を創出し、それを政府の財政に貢献する一方、政府が相応分の恩恵や保護を国民に与える。このように、国民国家の本来あるべき姿がいつの間にか消え去り、気がつけば国民が国家の扶養者になってしまったのだった。そうなれば、国民が食わせてもらっている以上、政府にものを強く言えなくなり、政府の家父長制化とともに統治者や特権階級への強権や富の集中が進む。

 この点では、またアラブ中東諸国が酷似している。中東諸国の経済を支えているのは自国民ではなく、外国人出稼ぎ労働者である。サウジアラビアの人口の半分を占めるのが外国人労働者だが、UAEやカタールとなれば、外国人の割合が8割から9割にも達している。

 パキスタン、インド、バングラディッシュ、ネパール、スリランカ、フィリピン、インドネシア、イラン、エジプト、近隣中東やアジアおよびアフリカ諸国などからの出稼ぎ労働者大群がアラビア半島に渡来し、彼らが中東諸国の経済を下支えしていると言っても過言ではない。

 きつい仕事は外国人にやってもらい、自国民はもっと楽な仕事をし、なかにぶら下がっている人間も当然増殖する。

● リスク意識と回避行動

 ブルネイは資源枯渇危機を意識していないわけではない。現に国家を支えてきた石油と天然ガス資源依存からの脱却を図ろうと、産業の多様化に取り組んでいる。太陽光発電やメタノール、アンモニア、さらにはハラール食品の製造流通ハブ化など様々な努力もなされている。だが、明らかな成果はまだ見られていない。原因は多様であろうが、国民のやる気のなさがその主因の1つであることは間違いなかろう。

 ブルネイと近隣諸国の関係は実に微妙なものだ。筆頭に言及すべきは、マレーシア。ブルネイの国土はマレーシアのサラワク州に囲まれる飛び地で、どこよりもマレーシアとのつながりが強いはずだ。

 私もこれを信じ、ブルネイの視察旅行にはマレーシアリンギットしか持っていかなかった。しかしそれが、ホテルしかもブルネイを代表するいわゆる「7ツ星」のエンパイヤホテルでブルネイドルへの両替を拒否された。市中心部の所定銀行店頭や両替店でしか両替できないという。

 驚いた。ブルネイから1000キロ以上離れたシンガポールの通貨シンガポールドルが、ブルネイドルと等価に固定されており、ブルネイ国内でそのまま流通・使用されているのに、すぐ隣のマレーシアの通貨は両替さえ制限を受けている。

 いや、距離のことをいったら、もっと面白いことがある。ブルネイ本土からわずか50キロ足らずの沖合に浮かぶマレーシア連邦領のラブアン島(Labuan)。このラブアンは、1990年マレーシア連邦オフショア会社法の制定によって、オフショア金融センターに指定され、国家規模の一大金融事業として発足した。現在マレーシアのオフショア金融センターないし租税回避地として東南アジアや中東の注目を集めている。言ってみればマレーシアのケイマン島のような存在である。

 どういうことかというと、将来的に資源枯渇したブルネイが転身してオフショア金融を目指すとなれば、先発優位性をもつラブアンが強力なライバルとなるだろう。マレーシアの意図的な戦略か、たまたまの偶然か定かではないが、結果的に先制効果となることは間違いなかろう。ブルネイには、退路が1つ減った。いや、マレーシアがブルネイのために一つの退路を作ったという見方もできる。

 第二次世界大戦終結後、ボルネオは日本軍の手から離れイギリスによる直接統治領になったが、1957年に先立って独立したマラヤ連邦の呼びかけに応じ、63年にシンガポール、サラワク、サバの英国領植民地が統合してマレーシア連邦が発足する。その当時、ブルネイだけが連邦に参加せず、英国植民地のまま残った。その主因はブルネイ沖の海底油田の利権絡みであり、これをめぐって利害関係者たちにどのような思惑や計算があったのだろうか。

 前述の通貨協定をはじめ、今日のブルネイとシンガポールの関係が緊密である。ブルネイ国王がシンガポールにホテルを所有し、シンガポールで高度な医療を受けるブルネイ国民の定宿として機能している、という話も聞いたことがある・・・。まあ、国王一族がシンガポールという国際金融センターを活用して資産運用することも十分に考えられるだろう。

● トレードオフ、石油の問題は政治の問題だ

 話をアラブ中東産油国に戻す。ブルネイと酷似しているのは、石油と政治の緊密な関連性である。

 王政の独裁体制が敷かれているこれらの国々では、膨大な石油マネーからもたらされる利益の一部を国民に配分する代わりに、国民は民主主義の要求を放棄し、王政を容認する、という暗黙なトレードオフが統治の土台になっている。

 石油マネーから国民にもたらされる最大の利益は、不労所得や経済的安定性、そして、格差の最小化を伴う平等関係である。

● 隣の芝生は青いか?

 前述の通り、人間は「非日常的不平等」よりも、「日常的不平等」が受け入れ難いものだ。王様一族がいかに桁違いの豪華な生活をしていても、それが非日常的な話であって、重要なのは隣の芝生が青いかどうかである。

 平等な配分が施されている限り、どこの芝生はほとんど同じ青さである。そこで、文句が涌かないので、王様の統治は安泰だ。

 さらに、自国民がやりたがらない仕事をどんどん外国人出稼ぎ者に押し付けることによって、今度は逆格差となり、相対的優位性を認知し、政治的満足度の向上につながる。まさに王様が狙っているところである。

 1割や2割の自国民の地位がダントツと高く、まさに国民総貴族化の状態である。

● 国民総貴族化と階級社会の形成

 国民総貴族化に伴い、マイノリティの自国民とマジョリティの外国人労働者との格差が顕在化し、一部拡大する。その格差は経済的格差だけでなく、政治的格差にもつながる。

 格差の拡大は、必ず国民の不満を引き起こし、それを増大させるというのだが、それは中東諸国であまり問題にならないのは、なぜだろう。それは、弱者側が国民ではないからだ。

 外国人労働者はどんなに不満があっても、稼がせてもらっている以上、出稼ぎ先の国に文句を言える立場ではない。政治的権利を持たないのも、むしろ当たり前だ。何よりも、流動的であることは支配者にとって都合がよい。

 階級の形成は通常、社会や政治の不安定要素につながるが、この場合、下層階級にあたる層は流動的な外国人労働者であれば、支配者階級や国民貴族階級に対し、脅威となり得ないのである。

● 人間は差別や階級を作り出す動物である

 少し話をそらす必要がある。階級やら格差やら差別やら、この辺の話になってくると、概念的な部分を整理しないといけないのである。

 差別は「悪」か「善」か。まずは道徳的にこの問題を論じないこととする。論じる意味がないからだ。仮に差別が「悪」であっても、この「悪」はどんなに非難されてもこの世から消えることがない。地震や台風と同じだ。悪というよりも、一種の存在である。

 要する差別たるものを容認しようと否認しようと、現実的に存在し、事実問題として捉えなければならない、人間の本能に原初的起源を根ざすものであるからだ。「差別を無くせ」と声高に叫んでいること自体が、差別の自然的生成と不可避性を裏付けるものであろう。

 人間は頭脳活動が可能な動物であり、科学的にも医学的にも解明不能な人間の本能というのが人体に埋め込まれている。そうした頭脳活動の中に、集団内の序列付け機能・本能があり、それが人間の心根、人間性に根ざした根源的ものであり、良いとか悪いとかというふうに規定しても、道徳的に批判しても何ら意味もなかろう。

 人類社会の発展を歴史的時間軸で見て分かるように、社会は階級化し、階級化によって差別が生まれる。いずれも内在的変化であり、歴史の必然性を踏まえたものである以上、繰り返しになるが、今日的な道徳観で外在的に批判しても決して建設的な行動ではないはずである。

 このため、差別の「善」「悪」規定は、合理性を有さない非建設的な行為である。少なくとも、企業経営と管理の次元では、このような社会学的な命題に余分な経営資源を投じるべきではなかろう。

● 抗争、仮想敵と分断統治の原理

 原始社会に起源する序列から、文明の発達に伴い支配と被支配階級が生まれ、それが階級化していく。階級化とはいわゆる身分的階層であり、そこから社会的差別が進み、社会や諸々の共同体の中で多様な形となり、自然かつ精緻に浸透していく。その洗練された形態が誠に驚きに値し、「差別です」という意識を全く与えることなく、「差別反対」を叫んでいる当事者自身が誰よりも差別の恩恵を受けていることも決して珍しくない。

 階級の支配にはこの種の社会差別を必要とする。その理由を述べよう。

 支配とは、少数の者が大多数の者に対する権威やパワーの体現(管理行為)である。その逆はありえない。その大多数の者がまとまった階級を形成し、それが結束して少数の支配者に向かって対立の姿勢を示し、反抗の行為を取り始めると、絶対的数では優位性を有する。

 したがって、階級支配を首尾よくするために社会差別を必要とし、そのうえ、多数派同士を複数の利益集団に分断し、ある種の「抗争」をさせる必要がある。言ってしまえば、「仮想敵」を作ることもでもある。多数派が結束して少数派の支配に対抗しないように、このような「分断統治」の観点が欠かせない。

 戦後の日本は世界でも珍しいほどの「平等」社会になったため、「階級」や「支配」、「抗争」といった概念に疎くなり、いや、むしろ道徳的「悪」として扱ってしまう社会になった。

 しかし、歴史的に日本という国を見ると驚くほど差別社会であった。ここでは決してそのような社会への回帰を提唱しているわけではない。前述の通り、「善」や「悪」という道徳観での外在的批判ではなく、歴史的社会関係の内在的メカニズムを注視する意味で言っているのである。

 江戸幕藩の統治体制では、多数派平民だけでなく、さらにその下にエタと呼ばれる最下層階級(特殊部落)を設け、まさに階級の分断と多層化によって多数派の結託と抗争に抑制機能を効かせる統治形態であった。

● 「分断統治」は帝王学の基礎

 「Divide and Conquer」、日本語にすると「分断統治」という。少数の支配者が大多数の被支配者に統治を行うにあたり、被支配者を異なる利益集団に分断し、それで統治を容易にする手法である。被支配者同士を争わせれば、支配者に矛先が向かわなくなる。

 帝王学における「必修科目」である。「分断統治」の起源は、デカルトの「方法序説」に記されている「第二の規則」まで遡ることができる。融合された集合体を、問題解決を容易にすべくあえてできる限り細かな小部分に分断する法則である。

 古代ローマ帝国は、支配下に置かれた都市相互の連帯を禁じ、都市毎に応じて処遇に格差をつけ、このような「分断統治」によって、征服した都市からの反乱を抑えることに成功したのであった。19世紀以降の欧米の植民地経営もまた然り、この原理を応用した。さらに日本の士農工商制度も「分断統治」の運用と考えてよいだろう。

● 「分断統治」の反証、逆方向の反統治

 逆方向の反統治においても、「分断」の概念が用いられる。マルクス主義の唯物史観は、労働者階級と資本家階級の分断による階級闘争を中核とした。これはまさに、支配階級の打倒を目指しての「分断」による「反分断」である。

 マルクス主義の良き実践者である毛沢東も、たとえば農民に対し「地主・富農・中農・貧農」と細かく階層を設け、対立・分断を図った。しかし、毛沢東はいざ政権を掌握し、被支配者から支配者に転じた途端に、今度被支配者の広義的人民(労働者階級)に対し、分断統治をはじめた。彼はでっち上げられた「人民内部矛盾」という概念を拡大解釈し、敵対勢力を「敵我矛盾」として位置付け、人民の力を動員して打倒に乗り出す手法を使った。文化大革命はその好例である。

 「分断」という概念はいまこそ、善悪のどちらかというと、悪側に分類されているのだが、その原初的意味、つまり「帝王学」における統治技術論の1つとして捉えた場合は、むしろ中性的なものであって、必要悪であってないし相対的善とすら理解されるべきであろう。

● 石油政治の原点はここにある

 王政統治の中東諸国の話に戻す。

 石油マネーで潤ったところで、その一部を国民に配分し、不労所得も含む福祉のばら撒きによって国民を黙らせ、独裁統治の安定基盤を作り上げる。

 さらに国民の総貴族化に伴い、マイノリティの自国民とマジョリティの外国人労働者との格差ないし階級の形成を座視し、「分断統治」の原理を活用する。ここまでくれば、むしろ特権をもち、頂点に立つ王族という支配者階級と貴族化された国民階級との間には、対立が存在し得なくなる。むろん、最底辺にある外国人労働者階級は国民ではないし、また流動的である以上、支配者にとって、これもまったく脅威とならない。

 全てよしと、石油政治の原点はここにある。

● ばら撒きができなくなったとき

 しかし、問題がないわけではない。

 まず、一番大きな問題点とは、すべての存立前提となる石油資源の枯渇、あるいは代替エネルギーの出現・普及である。石油マネーという収入の減少が継続的な財政悪化をもたらし、受容限界に達した場合、ばら撒き的なトレードオフ型支配・政治モデルを根底から見直さなければならなくなる。

 そこで真っ先に既得利益が損なわれるのは、自国民という従来の貴族階級である。ばら撒きが減れば、彼たちの不満が募る。国家財政と個人財政とが緊密に連結されているだけに、潜在的リスクが増大する。こればかりは、我が春を謳歌する時代には、誰もが気付かないのである。

 とはいえ、今まで楽をしてばら撒きの甘い汁を散々吸ってきたじゃないか。少し働いたらどうなんだと言っても、本人たちは聞く耳を持たないのである。

 それは、「参照点」の問題だ。

● 「参照点依存症」の自国民貴族階級の不満

 定価1000円の商品をバーゲンにかけて半額の500円で売る。客が安い安いと喜んでそれを買う。しばらくして、そのバーゲンが終わると、商品の定価を元々の1000円から800円に下げて売る。定価が200円も下がったとはいえ、客は全然喜ばないし、割高感すら持って文句を言う。

 この現象をどう解釈するか。「参照点依存症」の概念を使って説明すると分かりやすい。つまり客はどのような「参照点」を持つことによって、その心理や行動が決まるのである。

 バーゲンのとき、客の「参照点」は元定価の1000円だった。そこで半額になると、500円もの値下げがあったわけで、客は喜ぶ。ここでは、客の「参照点」が500円に変わる。その先では、たとえ定価が下げられたとしても、「参照点」の500円と客は比較し、800円の新定価に割高感をもってしまうのである。

 国民貴族たちは、いままで楽をしてばら撒きを食ってきた。そのばら撒きが少し減ったからといって、それでも楽をして稼いでいるわけだから、満足すればいいじゃないかというと、そうはいかない。国民貴族たちの頭に刷り込まれている「参照点」は、ほかでなく、ばら撒きによる利益が最大化した時点のものであった。それと比べると、ばら撒きの目減りがどんなに微々たるものであって、不幸や不満に他ならない。

 そこで、一枚岩だった国民貴族階級と王族支配者階級との間に亀裂が入る。「なんだよ。トレードオフの約束と違うじゃないか」と、国民貴族階級から王族支配者階級にいよいよ文句を言い出すと、その間に「分断」が生じる。

● 下層民の消失と自国民貴族階級の下層転落

 つまり、一体化していた王族支配者階級と国民貴族階級の関係は、利害相反を含む支配者と被支配者に変質すると、今度は少数の支配者である王族が大多数の被支配者である自国民を統治する際に、被支配者を異なる利益集団に分断し、被支配者同士の争いによって、支配者に矛先が向かわないように仕掛けなければならない。

 自国民(元)貴族階級に対し、もともと分断された対象はその下層民となる外国人労働者階級であった。オイル経済に亀裂が入って、自国民も収入減となれば、連鎖的に下層民である外国人労働者たちにもしわ寄せがやってくる。相対的に微小なしわ寄せであっても、元々低所得者だった外国人労働者にとって影響が甚大である。その悪化によって、最終的に外国人労働者は中東諸国から脱出し、四散していく。

 そうなったとき、自国民は比較対象(これも「参照点」)となる下層民(外国人労働者)の消失によって、徐々に社会の底辺への転落が始まる。すると、王族の支配者との対立は激化する一途をたどる。

 この話、日本の事例を引き合いに出せば、分かりやすいだろう――。

 今日の日本、相対的格差の増大に伴い、貧困層とその不幸や不満が増幅している。その主因の1つは、「参照点依存症」である。それの参照点は、決して諸外国の貧困民ではなく、自分たちの親世代なのである。

 戦後の日本人は、普通に働けば誰もが収入が増え、失業もなく、ほぼ一生の生活が保障され、定年後も悪くない年金を手にする。まあ、富豪にはなれないものの、一応幸せな一生を送れたのであった。それが、いわゆる親世代の「参照点」だった。

 この「参照点」と比較すると、今日の日本社会に見られる相対的貧困は、いかに不幸なものか。想像すれば、納得できるだろう。

● ばら撒きによる創造性と生命力の喪失

 世界が変わったのだ。一人ひとりも変わらなければ生きていけない。そんな愚痴をこぼしている時間があったら、頑張って新たな活路を見付けていれば良い。

 これは、正論。正論だけれど、必ずしも個人にとっての正論ではない。時には不正義ですらある。長いことばら撒きの甘い汁を吸ってきた人間たちは、過酷な競争世界を生き残るための胆力も活力も能力もないのである。

 想像力や生命力を無残に奪われたのだった・・・。

● J社の物語

 ここまで書くと、そろそろ企業経営の話に切り替えていきたい。賢明な読者たちは、恐らくすでに、筆者の言いたいことに気付いてくれたのであろう――。

 国家運営を、企業経営に置き換えた場合、どうなるか?

 アジアの某A国に進出した日系企業J社としよう。そのJ社は、日本本社から定期的な発注がやってくるし、むろん売り上げも保障されている。顧客も日本本社の既存顧客のメンテナンスさえすればよく、新規販売の開拓も必要がない。

 歴代日本人社長もやさしい人が多く、従業員思いで「みんなが喜んでくれる」人事制度のもとで、従業員間の競争もなく仲良しクラブ的な評価や昇給を行ってきた。現地従業員もこれを受け入れ、「日系企業の安定雇用と安定昇給」のメリットを十分に享受し、目立った不満はなかった。

 しかし、異変は知らないうちに生じた。直近数年、日本本社では一部の部門は縮小傾向を見せ始めるなか、A国現地のコストも右肩上がりの一途をたどっている。特に問題となるのは人件費。

 現地従業員のなかでも生え抜きでミドル以上の管理職に就く人が増え、その一部はどうも上昇する賃金にコストパフォーマンスが見合わなくなってきた。かといって、減給も降格もできないため、そのまま放置すると先はもっと困る。

 それに対し、役職ポストの不足で若年層の優秀な従業員たちは入社して早くもガラス天井にぶち当たる。無能で不作為な先輩管理職たちを目の当たりにし、不満を思いつつも、小間使いされているだけで時間が無為に流れていく。その先の出口は1つしかない――。会社を辞めることだ。

 辞めてほしい人は辞めない。辞めてほしくない人はどんどん辞めていく。

 思い切って企業の制度を抜本的改革するしかない。新しく赴任してきた日本人社長は腹をくくった。だが、いざ手をつけてみると、既得利益を積上げてきた従業員層から猛烈な抵抗を受け、悪戦に陥る・・・。

● 卵を一つのバスケットに入れるな

 産油諸国で見られる光景に重なって見えないか。

 単一資源や収入源に頼る国家運営も企業経営もリスクが大きい。石油の場合、枯渇という顕在リスクもあれば、代替エネルギーの開発と実用化という潜在リスクもある。目先に莫大な石油収入があっても、決して永続的な保障があるわけではない。

 産業や企業もまた然り。もっとも代表的事例は、コダック。まさかのデジタル時代の到来、それは予知できなかったとの一言では片付けられない。早くも1970年代にはデジタルカメラのプロトタイプを開発し、1991年には商用デジタルカメラの第一号機を発売している。

 強いブランド力と市場支配力をもっていながらも、コダックは、不確実要素をすべて予見できなかった。将来に備えた新規事業への投資を先送りにしたのは、既存コア事業との競合や共食いを恐れていたからだろう。最終的に、コダックはデジカメ時代の競争に乗り遅れてしまった。

 時流の方向を把握しつつも、その流れのスピードが想像よりはるかに早く、過去の延長線上で戦略の微調整だけでは対応できなかったことが大きな教訓を残してくれた。

 「卵は一つのバスケットに入れるな」。一点豪華主義ならぬ一点賭け主義のリスクがいかに大きいか。

● 現地拠点は単一事業・収入源でやっていくか?

 グローバル事業戦略の指向は、最終的にリスクの分散とコストの最適化にある。地球儀を俯瞰する広義的な企業戦略は、日本本社が策定するにしても、世界各国各地に散在する拠点からは、絶えずタイムリーに精確な現地情報を司令部に送り込む必要がある。一つひとつの現地発の情報が、精確な経営決断の裏付けとなるからだ。

 狭義的における各海外現地拠点の経営合理化とリスク分散戦略の策定と実施作業は、拠点経営トップの肩にかかってくる。前述のようなJ社の事案、現地拠点はむしろ本社の下請けや顧客サポートセンターになっている場合、どのようなスタンスで臨むべきだろうか。その辺の位置付けを明確させることがとても大切である。

 たとえば、現地の低コスト優位性を生かし、単一事業に資源を集中投入してこれに特化するのも1つの選択肢である。その場合、その単一事業の顕在・潜在リスクを予見し、存続可能期間を見定めた上で、相応の戦略を打ち立てるべきであろう。

 いや、もうちょっと長期的に現地事業を継続させたいというのなら、単一事業が不振だったり潰れたりした場合の代替事業分野、つまり「プランB」や「プランC」を早い段階で検討しなくてはならない。それが無策のままいざリスクが顕在化してしまうと、もう手遅れだ。その辺はまさに、産油諸国がリアルな示唆をしてくれるところであろう。

● 「和」とは何か?日本の和、産油諸国の和、そして世界の和

 リスクの分散を縷々と述べてきたが、最後に、従業員の「分断」に触れて本文を締めくくりたい。

 従業員の「分断」という逆説的な概念をすでに前述したので、繰り返しを避けたい。ただ「和を尊ぶ」ことを善とする日本人にとって、決して受け入れやすい概念ではない。

 「和を尊ぶ」という概念には、私は賛同する。ただ、国際社会での「和」と日本的な「和」には、根本的な違いがあることを指摘したい。

 現今の世界では、論理性や議論をなくした同質の「和」ではなく、議論を尽くした論理的な結論、それに相当の利害関係や力関係も加味された結論によって形成された均衡状態が、「和」である。しかも、流動的な「和」であり、決して固定することはない。

 それ故に、世界に存在するあらゆる個体や共同体は、常に自己保存・自己強化・自己拡張に取り組み、流動的均衡のなかで優位を獲得し、優位に立つことによって「和」を手に入れることを目指しているのである。

 「和」とは何か。日本人にもいよいよこれを真剣に考え、定義する時代がやってきた。「KY」とは、「空気が読めない」でその異端者が暗黙の疎外圧力を受ける存在である。しかし、それ以前に日本人はまず地球の住民として、この世界の空気を読めているのだろうか。

 産油諸国では、言論や議論、民主主義といった権利を国民に放棄させ、その代わりに「楽をして得られる利益」を供与し、独裁的な王権統治を守るというトレードオフ型の政治が行われている。その利益供与に当てられるリソースはいうまでもなく、単一収入源である石油マネーである。

 産油諸国の政治目標も、紛れもなく「和」である。だが、この「和」は石油という単一資源・収入源の基盤に立脚している。そして、その基盤は果たして恒久的存続を担保されたものであろうか。答えはすでにあったはずだ。

● 危険な仲良しクラブを打ち破れ!

 「チームワーク」と「仲良しクラブ」とは、全く異質の別概念である。

 表向きには、喧嘩もなく、対立もなく、和気あいあいの仲良しクラブ。組織のなかに一旦存在してしまえば、往々にしてその裏に様々な異物が潜伏している。それが、癒着の蔓延だったり、怠惰性の繁殖だったり、既得利益への執着だったり、創造性やサバイバル力の喪失だったり、それらの総和は組織そのものの死に至らしめるほどの猛毒をなし、しかも「和」という善の外見を有しているだけに、その危険性は何倍も増大するのである。

 分断や対立は決して絶対悪ではない。特に業務遂行上に必要な議論、時には喧嘩や対立のようにも見えるが、その内実は程よい緊張感を伴う論理的なぶつけ合いだったり、癒着や脱線への牽制だったりすれば、十分に健全的かつ欠かせないものである。

 異質の価値観や勤労観によっても、従業員の間に分断が生じ得る。競争を善とし、リスクを取ってチャレンジに挑んで高いリターンを求める従業員もいれば、安定な雇用を重視し、やや低めでも安定収入が確保されるルーチン業務を得意とする従業員もいる。それぞれの層に善悪をつけるべきではない。複線の賃金・インセンティブスキームで対応すれば良いだけの話である。むしろ積極的に能動的に「分断」や区分処理に取り組まなければならないのである。

 チームワークとは、動機付けが必要で、目的や目標を共有するユニットであり、共同体である。表面的な「和」を判断基準としてはならない。

● 生命力を与えよ!

 最後に、従業員の育て方についてである。

 日系企業でもっともよく見られるパターンは、指示待ち型従業員である。それは本人の原因もあるだろうが、そのほとんどが会社側の制度や管理姿勢にあると思われる。

 「素直」が美徳とされているからだ。上司の指示に素直に従っていれば、とりあえず問題は起きないし、起きても責任を取らされることはない。安定収入と服従がセットになっている。これも限りなく産油諸国のトレードオフ型政治に酷似している。

 上司の指示に意見や異見を申し述べることに抵抗を感じる。これによって上や周りとの関係を壊したくないから、本当はもっといい方法があって違うことを言いたいけれど、結局黙って指示に従っておこうと、宮仕え、処世術先行の姿勢に徹する。

 指示待ち、前例踏襲が幅を生かした組織になれば、従業員の思考力も創造力も、最終的に個人的サバイバル力・生命力も奪い去られる。そこで増幅されるのは、横との比較に基づく相対的結果の平等を求める本能と、強者や勝者に対するルサンチマンにほかならない。

 従業員に競争を与え、サバイバル力、生命力を与える。これは、経営者がもつべき最大かつ最良の親心だ。

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