「自由を放棄する自由」を失ったとき、日本人の悲劇は続く

 「自由」――。「自由」は良いものだ。人間は常に自由を求めている。

 一見正論であるかのように見えても、少なくとも半分くらいはウソである。世の中、自由を放棄し、自由を拒否し、自由から逃げている人はいくらでもいるからだ。

 「自由は耐えがたい孤独と痛烈な責任を伴う」。――ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの著作『自由からの逃走』(1941年)は、「自由」の本質を根底からえぐり出した。フロムは問う。単に幸福を追求するために選んだ自由は果たして本物の自由といえるのか。「選ばされた自由」に誤魔化されてはいないか。気づかぬうちに自分が自由を得ながらも他者に対する加害者になっていないか。

 日本の終身雇用制度は崩壊しようとしている。これは会社の束縛から解放され、自由を得ることを意味する。ならば、これ以上喜ぶべきことはあるまい。にもかかわらず、不安、落胆、失望、焦燥、悲痛、恐怖、そうした負の感情を抱き、現状を痛烈に批判し、「誰か」に責任を取らせようとする人たちがいる。

 彼・彼女たちは自由に伴う「孤独」「責任」を恐れているからだ。特定の組織の束縛から解放され、多様な選択ができるようになることをプラスに捉えていない。その根底に横たわっているのは、「自己責任」への拒否である。

 最近日本ではどうやら「自己責任」という言葉はあまり気色がよろしくない。広範な選択の自由の下で生まれる「自己責任」はリスクや不利益の可能性をも意識させるからである。日本という国では個の確立が立ち遅れていると言われている。多くの人は「選択の自由」よりも「不選択の安心」に傾き、共同体の成り行きに身を委ねてきた。故に自己責任に違和感をもち、その受け入れにアレルギー反応を起こしている。

 決してこれを批判しているわけではない。「選択の自由を放棄し、不選択の安心」を選択するのも一種の選択であって、その自由は保障されるべきだろう。つまり、選択の自由を放棄し、「依存」「従属」を選ぶという選択の自由である。

 ただ現状は残念ながら、個人の「依存」と「従属」に、組織は十分な対価給付として「保護」や「報酬」を提供し続けることが困難になってきた。そこでかつての組織構成員である個人に、強制的に「自由」を付与しようとしているのだ。言ってみれば、受動的自由の付与である。

 自由は2種類に分けられる――「受動的自由」と「能動的自由」。真の「能動的自由」とは、個人が自ら主体として能動的に希求する自由であり、その自由に伴うリスクや責任をもすべて受け入れる、そうした覚悟ができていなければならない。しかし、実際に「自由」に伴うリスクや責任といった側面は日本社会でほとんど語られてこなかった。「自由」は一方的な権利として解され、日本人の「自由」に対する普遍的な認識は、非常に単純化された枠組みにとどまっていたのである。

 一方、「自由の放棄」を代価として手に入れたいわゆる「安心」や「安全」を絶対善としてきただけに、「自由」という概念の捉え方はより一層歪み、ひどく畸形化した。いざ「自由を放棄する自由」が失われようとしたときになってみると、日本人の悲劇はクライマックスを迎える。

 ただ日本人は喪失に強い民族である。悲劇のクライマックスはきっと再生の序章になるだろう。

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