「努力しても報われない」時代、神の救済にあずかるための方法

 「努力は必ず報われる」。これは、間違っている。「努力しても報われない」人がたくさんいることが何よりの証明だ。「努力不足」だったり、「間違った努力」だったり、「運が悪かったり」すれば、報われない。この世の中はむしろ、報われない方が多いくらいだ。

 日本人は仏教的な「因果応報」を信じる人が多いから、「努力」と「報い(酬い)」を因果関係で結びつけるのである。しかしよく考えると、これは単に宗教的な説に過ぎないことに気づく。演繹的にも帰納的にも結論付けできないからだ。「因果応報」は善行を積んで神の救済にあずかることを意味する。

 善行を積めば必ず神の救済にあずかれるのだろうか。いいえ、違う。逆に悪行を重ねた人間は罰せられるどころか、良い結果にあずかっていることも多い。神が万能なら、こんなことはあり得ない。分かったことは1つ――。人が神の救済にあずかれるかどうかは、この世で善行を積んだかによって決まるわけではない。

 「予定説」――。カルヴァンが提唱した神学思想で、救う者と滅びる者は予め神によって決められているという説であり、言い換えれば、現世でいくら善行を積んでも、どんな罪を犯しても、その人が天国に行けるか地獄に落ちるかは既に神によって決められているという思想である。

 カルヴァンといえば、マルティン・ルターと並んでキリスト教宗教改革の先導者とされ、彼の思想はプロテスタント諸派に大きな影響を与え、さらにマックス・ヴェーバーにも影響を及ぼしたと言われている。この流れを背景に、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んでみると、「予定説」と資本主義のつながりを解釈できるのではないかと思った。

 善行や悪行に関係なく、1人の人間が神の救済にあずかれるかどうかは、神によって決められているのだ。さて、救済対象として誰が選ばれるのか、どのような基準で決められるのか、いつ決められるのかが明示されていない。そこがとても重要なところだ。もし、救済されることが事前に分かっていたら、人間は果たして本当の意味で努力するのだろうか。上辺の努力、ないし無駄な努力だけにしてあとはただひたすら神の救済を待つのみ……。

 「予定説」。予定が分からない。予定が既定なのか、未定なのかすら分からない。だから、努力する。必死に努力するのだ。わずかな希望だけでも、神の救済予定リストに選ばれるべく、とにかく努力する。結果は保障されていないからこそ、努力する。これが資本主義の原点ではないかと私は思う。

 「努力は必ず報われる」。間違っている。「努力」は「報い」の必要条件だが、十分条件では決してない。たとえ努力して成功の確率が1%であっても、努力しなければ、成功の確率は0%だ。だから、0%よりは1%に賭け、努力するのは資本主義の原理なのだ。

 戦後の日本、高度経済成長と終身雇用制度という2つの外部要因がたまたま揃ったことで、「努力は必ず報われる」という非論理的な理論が奇跡的に成立した。そこで「努力」が賛美され、「効率の悪い努力」「見せかけの努力」「不要な努力」「コストのかかる努力」などあらゆる努力が無差別に賛美されてきた。ついに不覚にも、「本当の努力をしなくても報われる」社会になってしまった(参照:努力と報酬の関係、「不確実性」の世界をどう迎えるか?)。

 ようやく、本物の努力が問われる時代がやってきた。神の予定がどうであれ、神の救済がなくとも、自己救済できる人になればよい。そもそも、神の救済にあずかれる人は、自己救済のできる人ばかりではないだろうか。

 「天は自ら助くる者を助く」。――これが神の予定である。

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