ウクライナ侵攻、プーチンから学ぶもの

 「プーチンから学ぶもの」という見出しにいささか反感を覚える人はきっと、正義感溢れる立派な人であろう。大方の人はロシアがウクライナに侵入する一報を受け、正義の判断基準が即時に作動し、プーチンは悪人であることを確信するだろう。

 悪から学ぶのか?そうだ。悪から学ばなかったらどうやって悪と戦うのか?悪から学ぶことは、悪を為すのでなく、悪を知ることであり、悪と戦って悪に勝つことを意味する。では、プーチンは悪なのだろうか?

 もし、他国侵入が「悪」だとすれば、私の予測が外れたことになる。私は、プーチンがウクライナをカードにし、米欧との交渉でより有利な条件、より大きな成果を手に入れることを予想していたが、ここまで大規模の電撃侵攻を断行するとは想定しなかった。そうした意味で、私はまだまだ「善」の部類に属しているように思えた。

 プーチンは悪かというよりも、国際政治において「善・悪」の区分に意味があるかだ。もし、善悪の所在が明らかであれば、ウクライナが今一番必要としているのは派兵などの軍事援助(力)であり、善の同盟が力を貸すべきだろう。しかし、現実はどうだろうか。

 「ロシアがウクライナに何をやったか」
 「西側がウクライナのために何をやったか」

 明らかだ。前者は「Act」(軍事侵攻)、後者は「Talk」(抗議・非軍事制裁)。決して釣り合っていない。米欧の「NATO=No Act Talk Only」化。それが本質。いうならば、ロシアが悪だとしても、ウクライナは善といえるのか。米国の安保を信じて1994年に核放棄したウクライナが「愚」であることはまず、間違いない。

 今日のウクライナを眺めて高笑いしているのは、他でなく、核保有国・北朝鮮の独裁者金正恩である。彼の決断は正しかったことが証明されたのだ――。国際政治においては、「善・悪」よりも、「強・弱」「智・愚」しか意味をなさない。

 「プーチンから学ぶもの」とは何か。もう見えてきただろう。プーチンからよりも、マキアヴェッリから学ぶべきだろう。プーチン自身もマキアヴェリズムの学習者であり、良き実践者であるからだ。

 「歴史に残るほどの国家ならば必ず、どれほど立派な為政者に恵まれようとも、2つのことに基盤をおいたうえで種々の政策を実施したのであった。それは正義と力である。正義は、国内に敵をつくらないために必要であり、力は、国外の敵から守るために必要であるからだ」(マキアヴェッリ『フィレンツェ共和国の今後について、メディチ家の質問に答えて』)

 「個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである」(マキアヴェッリ『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』)

 正義なき力が醜悪だとすれば、力なき正義は美弱だ。美弱故に正義の実現ができず、結果的に醜悪が横行するようになれば何の意味もない。それでいいはずがない。正義が美だが、力は決して醜ではない。力を持たない弱者が往々にして力を醜悪化し、正義を打ち立てて自己美化する。

 「弱者いじめ」は強者の力による不正義だとすれば、その不正義に打ち勝つために正義による更なる強さが必要であり、弱者はその更なる強さに助けを求めているのである。結局のところ、正義は正論(べき論)でなく、力によって実現するという関係が明白だ。

 プーチンは、確固たる理念と遠大な理想を兼ね備える深謀遠慮な戦略家、そして名君である。知力、胆力ともにトップレベル。トランプはこのたび、プーチンを「天才的」と絶賛したのも同類故の慧眼であろう。金正恩も同類だ。だが、なぜトランプだけが「失脚」したのか。それは、君主強権型政治による独裁と民主主義衆愚政治による独裁、という2種類の独裁の戦いで後者が勝利したからだ。

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