階級社会の真実(19)~自由を拒否する、新奴隷制度のメカニズム

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 誰もが自由を求める。これは、決して真理ではない。

● 選択の自由を放棄する

 制度の中に安住する。――ある程度の自由を犠牲にしても、それと引き換えに恒久の保障を得る、というトレードオフである。長きにわたってそうした制度内にいると、たとえ自由を与えられても、それを享受する意思が希薄化したりする。それどころか、戸惑いすら感じ、自由を迷惑視し、自由の受け入れを拒否することも珍しくない。

 「自由」は、死を意味する。そういうときもある。世の中、自由を放棄し、自由を拒否し、自由から逃げている人はいくらでもいるからだ。

 「自由は耐えがたい孤独と痛烈な責任を伴う」。――ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの著作『自由からの逃走』(1941年)は、「自由」の本質を根底からえぐり出した。フロムは問う。単に幸福を追求するために選んだ自由は果たして本物の自由といえるのか。

 日本の終身雇用制度は崩壊しようとしている。これは会社の束縛から解放され、自由を得ることを意味する。ならば、それ以上喜ぶべきことはあるまい。にもかかわらず、不安、落胆、失望、焦燥、悲痛、恐怖、そうした負の感情を抱き、現状を痛烈に批判し、「誰か」に責任を取らせようとする人たちがいる。

 彼らは自由に伴う「孤独」と「責任」を恐れているからだ。特定の組織の束縛から解放され、多様な選択ができるようになることをプラスに捉えていない。その根底に横たわっているのは、「自己責任」への拒否である。最近日本ではどうやら「自己責任」という言葉はあまり気色がよろしくない。広範な選択の自由の下で生まれる「自己責任」はリスクや不利益の可能性をも意識させるからである。

 日本という国では個の確立が立ち遅れていると言われている。多くの人は「選択の自由」よりも「不選択の安心」に傾き、共同体の成り行きに身を委ねてきた。故に自己責任に違和感をもち、その受け入れにアレルギー反応を引き起こしてしまう。

 決してこれを批判しているわけではない。「選択の自由を放棄し、不選択の安心」を選択するのも一種の選択であって、その自由は保障されるべきだろう。つまり、選択の自由を放棄し、「依存」と「従属」を選ぶという選択の自由である。ただ、現状は残念ながら、個人の「依存」と「従属」に、組織は十分な対価給付として「保護」や「報酬」を提供し続けることが困難になってきた。そこでかつての組織構成員である個人に、強制的に「自由」を付与しようとしているのだ。個人側からすれば、受動的自由の受領である。

● 自由からの逃走

 自由は2種類に分けられる――「受動的自由」と「能動的自由」。真の「能動的自由」とは、個人が自ら主体として能動的に希求する自由であり、その自由に伴うリスクや責任をもすべて受け入れる、そうした覚悟ができていなければならない。しかし、実際に「自由」に伴うリスクや責任といった側面は日本社会でほとんど語られてこなかった。「自由」は一方的な権利として解され、日本人の「自由」に対する普遍的な認識は、非常に単純化された枠組みにとどまっている。

 一方、「自由の放棄」を代価として手に入れたいわゆる「安心」や「安全」を絶対善としてきただけに、「自由」という概念の捉え方はより一層歪み、畸形化した。いざ「自由を放棄する自由」が失われようとしたときになってみると、日本人の悲劇はクライマックスを迎える。

 「自由からの逃走」。一見ありえないことだが、実はわれわれ人間が日々自由を求めながらも、自由から逃げ回っているのだ。

 会社員になり、会社の指揮命令下に置かれ、言われた仕事をやる。自分が完全に望んだ形、納得した形で働いているわけではない。つまり、完全に自由な状態ではない。様々な束縛を受けている。さらに、異動。転勤辞令を手にして、行きたくもない場所へ行き、何年も憂鬱な気分で働かざるをえない。自由のないサラリーマン生活は辛い。と思ったことはよほどラッキーな人でなければ、誰にも一度や二度はあるだろう。

 そこで会社を辞めれば、自由になる。リストラされても、同じ自由になる。素晴らしいことではないか。だったら、終身雇用制の崩壊を大いに歓迎すべきではないか。サラリーマンは会社の束縛から自由になれるわけだから。なぜ、終身雇用制の崩壊を悲しみ、憤りを感じる人が大勢いるのだろうか。

 いざというとき、会社から解放されて得られるその自由だけは、要らないというのだ。なぜだろう。その自由から逃げたい。あえて会社に所属し、組織のなかに入り、様々な不自由を味わいながらも、帰属感と保障を得、そのほうが安心だから。これはいわゆる「自由からの逃走」の原点である。

● 「…からの自由」と「…への自由」

 エーリッヒ・フロムは、自由を束縛する「絆」を「第一次的絆」と「第二次的絆」に分けて論証した。サラリーマンの事例だと、会社・組織から離脱することによって断ち切られるのは「第一次的な絆」である。組織の束縛の解放から得た自由、この「…からの自由」は、物理的な自由であり、真の本質的な自由ではない。

 ここからは「第二次的絆」の構築が始まる。会社から解放された人は、新たに自分で仕事を見つけ、糧を得、生計を立て、自分のやりたい仕事に就き、夢を実現していくという精神的な自由へたどり着くまでの長い道のりは、往々にして恐怖や苦痛に満ちている。私自身は幸いにも、この精神的な自由、つまり「…への自由」にたどり着いた1人ではあるが、多くの苦難を味わったことは一生忘れることがない。

 精神的な自由とは何か。それは何も世の中怖いものがなくなったような実感を常に持っているということだ。恐怖がなくなるわけではない。恐怖は相変わらずある。だが、それは克服できるものだ、恐怖はあくまでも次の幸運や幸福の入口だという確信を持てるようになる。精神的に自由になった以上、自分が自分の恐怖心や暗黒面に打ち勝つことができるようになる。

 「…からの自由」は他人と戦って得る自由であれば、「…への自由」は自分自身と戦って得る自由になる。ニーチェいわく「あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう」。そこが本質なのだ。自己を超克することによって、真の自由、精神的な自由という「第二次的絆」を得る。

 故に、現実の問題は「第一次的絆」が断ち切られたとき、あるいは断ち切られようとしたときに、その自由から逃げようという心理の存在である。自由を放棄し、新たな組織や集団、あるいは宗教に身を託し、新たな束縛や帰属によって保障や安心感を得たいという心理。それが成就したときは、「…からの自由」から「…への自由」への昇華が消滅する。

 戦後の日本社会全体を見渡し、「安心」を道徳的に善としてきた。そのための「第一次的絆」が強固なものであればあるほど、より多くの自由が失われる。その側面は公に語られてこなかった(教育がなされていない)し、大方の日本人もこの本質に気付いていない。

 今、時代が変わろうとしている。保障に供されるリソースが不足し、保障は従来通り提供できなくなった。「保障」が目減りするとともに、反比例的に「自由」が増加する。一例を挙げると、多くの企業では最近、副業を容認するようになった。副業容認も1つの「自由」が増えたことである。その分、反比例的に「保障」が目減りする。サラリーマンの自由度が段階的に向上することは、会社との「第一次的絆」の脆弱化が進行していることを意味する。最終的にその絆が切れたとき、サラリーマンには「…からの自由」が完全付与される。

 今の日本は、そうした歴史の大変革期にある。『自由からの逃走』という哲学書は、心理学の視点からわれわれに多くの示唆を与えてくれる。自分の生き方を自分で決め、自由な人生を手に入れる。というのが簡単だが、実はその奥に錯綜したメカニズムが絡んでいるわけだ。

<次回>

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