自由から逃走している人々、終身雇用崩壊のメカニズム

 「自由からの逃走」。一見ありえないことだが、実はわれわれ人間が日々自由を求めながらも、自由から逃げ回っているのだ。 

 会社員になり、会社の指揮命令下に置かれ、言われた仕事をやる。自分が完全に望んだ形、納得した形で働いているわけではない。つまり、完全に自由な状態ではない。いろんな束縛を受ける。さらに、異動。転勤辞令を手にして、行きたくもない場所へ行き、何年も憂鬱な気分で働かざるをえない。自由のないサラリーマン生活は辛い。と思ったことは誰にも一度や二度はあるだろう。

 そこで会社を辞めれば、自由になる。リストラされても、同じ自由になる。素晴らしいことではないか。だったら、終身雇用制の崩壊を大いに歓迎すべきではないか。サラリーマンは会社の束縛から自由になれるわけだから。なぜ、終身雇用制の崩壊を悲しみ、憤りを感じる人が大勢いるのだろうか。

 いざというとき、会社から解放されて得られるその自由だけは、要らないというのだ。なぜだろう。その自由から逃げたい。あえて会社に所属し、組織のなかに入り、いろんな不自由を味わいながらも、帰属感と保障を得、そのほうが安心だから。これはいわゆる「自由からの逃走」の原点である。

 エーリッヒ・フロムは、自由を束縛する「絆」を「第一次的絆」と「第二次的絆」に分けて論証した。サラリーマンの事例だと、会社・組織から離脱することによって断ち切られるのは「第一次的な絆」である。組織の束縛の解放から得た自由、この「…からの自由」は、物理的な自由であって、真の本質的な自由ではない。

 会社から解放された人は、新たに自分で仕事を見つけ、糧を得、生計を立て、自分のやりたい仕事をやり、夢を実現していくという精神的な自由へたどり着くまでの長い道のりは、往々にして恐怖や苦痛に満ちている。私自身は幸いにも、この精神的な自由(「…への自由」)にたどり着いた1人ではあるが、多くの苦難を味わったことは一生忘れることがない。

 精神的な自由とは何か。それは何も世の中怖いものがなくなったような実感を常に持っているということだ。恐怖がなくなるわけではない。恐怖は相変わらずある。だが、それは克服できるものだ、恐怖はあくまでも次の幸運や幸福の入口だという確信を持てるようになる。精神的に自由になった以上、自分が自分の恐怖心や暗黒面に打ち勝つことができるようになる。

 「…からの自由」は他人と戦って得る自由であれば、「…への自由」は自分自身と戦って得る自由になる。ニーチェいわく「あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう」。そこが本質なのだ。自己を超克することによって、真の自由、精神的な自由という「第二次的絆」を得る。

 故に、現実の問題は「第一次的絆」が断ち切られたとき、あるいは断ち切られようとしたときに、その自由から逃げようという心理の存在である。自由を放棄し、新たな組織や集団、あるいは宗教に身を託し、新たな束縛や帰属によって保障や安心感を得たいという心理。それが成就したときは、「…からの自由」から「…への自由」への昇華が消滅する。

 戦後の日本社会全体を見渡し、「安心」を道徳的に善としてきた。そのための「第一次的絆」が強固なものであればあるほど、より多くの自由が失われる。その側面は公に語られてこなかった(教育がなされていない)し、大方の日本人もこの本質に気付いていない。

 いま時代が変わろうとしている。保障に供されるリソースが不足し、保障は従来通り提供できなくなった。「保障」が目減りするとともに、反比例的に「自由」が増加する。一例を挙げると、多くの企業では最近、副業を容認するようになった。副業容認も1つの「自由」が増えたことである。その分、反比例的に「保障」が目減りする。サラリーマンの自由度が段階的に向上することは、会社との「第一次的絆」の脆弱化が進行していることを意味する。最終的にその絆が切れたとき、サラリーマンには「…からの自由」が完全付与される。

 いまの日本は、そうした歴史の大変革期にある。「自由からの逃走」という本は、心理学の視点からわれわれに多くの示唆を与えてくれる。

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