階級社会の真実(18)~下層の証、「安心」を求める日本の大衆

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 日本の大衆は、とにかく弱い。

● 落とし物が必ず戻ってくる

 落とし物が必ず戻ってくる。日本人の美徳、日本社会の美点として讃えられている。それは、美徳でも何でもない。法律に定められた義務なのだ(参照:『落とし物が戻ってきた、美徳云々の話ではない』)。 

 世界に誇れる日本社会の「安全性」は、大衆に「安心感」を与え、1億人を放心状態に陥れる。日本人は病的に「安全」と「安心」を求め、それらを「善」とする。しかし、世界は「危険」と「不安」に満ちている。世界の常態は、日本の非常態。

 リスクへの備えができた時の安心は、「真」の安心
 リスクのないことを願った時の安心は、「愚」の安心
 誰かが守ってくれると信じた時の安心は、「偽」の安心

 大方の日本人は、「そうあってほしい」という主観・感情と「そうなっている、そうなる」という客観・現実を混同し、置き換えている。

 故に、日本人のリスク管理・危機対処能力が非常に低い。いざというときになって被害を受けたら、「未曾有」「想定外」で自己責任を逃れ、他者を「悪」として批判し、被害の他責化に余念がない。「自己責任」を嫌う大衆・下層階級は、自分の運命を支配者・上層階級の善意と采配に託しているからだ。

● 「安全」と「安心」の関係

 終身雇用制度はまさに好例。サラリーマンが生涯に1つの会社に勤め、悪いことさえしなければ、ある程度の努力(努力のふり)さえしていれば、会社は解雇できず、生涯の雇用を保障する。サラリーマンが会社に対して、「言うことを聞くから、守ってくれ」という権利と義務の関係である。つまり、自由・自主性の放棄と引き換えに保護を手に入れることだ。甘えと依存心だ。

 依存している以上、ルールの制定権も改定権も皆無だ。さらに契約(約束)を相手に破棄されても、なす術がない。大衆は、「安心」「安全」という2つの概念について、理解していない。いや、考えてもいない。洗脳教育で刷り込まれた善悪の二元論で脊髄反射しているだけ。

 「安心」は主観的状態。「安全」は客観的状態。主観からは客観が生まれないのだ。逆に安心し切ったところで、忍び寄る危険を見落とし、自ら「不安」状態を招く。つまりは「安心」から「安全」ではなく、「危険」が生まれるというパラドックスだ。

 日本人大衆の最大の弱点は、「甘え」。甘えと依存心は双子だ。

● 不安いっぱいの時代に安心を求める人たち

 馬車しかなかった時代には、自動車の存在など想像すらできなかった。今は自動車の時代だが、われわれは将来を想像することができるのか。目をこすってぼんやりとした遠景を懸命に見定めようとしながら、不安でいっぱいだ。

 トヨタ自動車グループの幹部・社員向けに、私が『生き方改革勉強会』をつくった。勉強会でこのような話をしていると、ある社員から返事が返ってきた。「トヨタにいながらも、いずれ、真の自立が必要になるでしょう」と。とてもシンプルなこの一言がすべてを語っているように思えた。トヨタという一流企業にさえ入れば、安全で安心できるという思い込みがあったのだ。

 「自分のために自分を磨き続けてください。トヨタの看板がなくても、外で勝負できるプロを目指してください」 。2019年1月8日、豊田章男社長(当時)が年頭の挨拶でこう語った。「外で勝負できる」者が本物のプロである。それを裏返せば、自由・自主性を捨てて、特定の会社に一生の運命を託してしまう者は、自主的奴隷でしかない。

 自由の放棄と引き換えに、保護される安心を手に入れる。これが、大衆・下層階級の特徴の1つである。

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