階級社会の真実(17)~「信仰」と「宗教」、知られざる裏とは?

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 大衆は一般的に、難しい思考を避けたい、考えたくない、楽にしたい、楽に稼ぎたい。一方、支配者・上層階級にはこれが都合が良く、様々な便利な「既製品」を大衆に与える。

● 「宗教」という人類史上最大の既製品

 哲学は、「人間はどこから来たのか?生きる意味は何か?」といった人生の基本を探求するものだ。哲学から、信仰が生まれ、信仰が人生を方向付ける。しかし、大衆全員が哲学して信仰を確立することは難しいので、いつの間にか「宗教」という既製品が用意された。しかも、あたかもそれが信仰そのものであるかのように仕立てられた。

 信仰と宗教は別物だ。なぜ別物か、検証はそれほど難しくはない。「無宗教者は全員、無信仰者か?」という問いに、「NO」という回答が自ずと出るだろう。宗教は必ず信仰を含むが、信仰を持つ者は必ずしも宗教に帰依しているとは限らないからだ。

 「宗教」とは、2人以上を前提とし、思想体系・組織・制度を含む概念であるのに対して、「信仰」は、1人で成立し、人の意識・思想に焦点をあてた概念である。

 「宗教」は、俗世の組織であり、権力と財務のシステムが存在する以上、不正や腐敗、政治との癒着が伴うのに対して、「信仰」は、俗世の財務的・権力的要素が存在しないだけに、聖域浸食のリスクが低い。

 「宗教」は、既製の教義があり、信者に従属・追随を求めるが、完全理解を求めず、信者個人が受動的であるのに対して、「信仰」は、基本的に個人の思想・論理に基づく信心や信条の確立であり、個人が能動的である。

 「宗教」は、一般的に自教のみで、他教への同時帰依を許さない硬直的なものであるのに対して、「信仰」は、複数の宗教や哲学、実務からスポット的な良いとこ取りが可能で、より柔軟性を有している。

● 自分の神と対話する

 既製品の神と教義を押し付ける宗教と違って、独自の信仰なら、自分の中にいる神に出会い、その神との対話を持つことができる。たとえ、宗教の自由が禁じられても、信仰の自由は禁じられまい。一人ひとりがそれぞれ信仰を持てば、宗教は不要だ。

 宗教とは、信仰の標準化と量販である。人間には信仰が必要だ。一人ひとりがオリジナルの信仰を持つのがベストだが、それができないから、産業としての宗教が必要になる。もちろん、宗教は正しいことをたくさん言う。ただそのほとんどが実現できない空想の正論である。だが、実現できないからと言って軽視すべきではない。宗教は悪を抑制する意味で一定の役には立っている。

 宗教が次第に産業化する。産業化は利益を意味する。宗教産業の中を見ても、搾取が凄まじい。上層は下層を搾取し、教義に反する諸行為に及び、現世の人生を楽しんでいる。そういうのも珍しくない。一方、搾取を甘受し、あるいは搾取すら感じない、敬虔な下層がいる。

 私自身は無宗教・有信仰者である。宗教施設の見学も聖典や聖書の研究も大好きだが、信教はしない。信仰があるから、信教する必要は全くない。

 どこの街も観光名所といえば、教会や寺院がある。こういった建物・施設の主な効用は、宗教と観光。しかし、私は自分の用途があって訪ねることにしている――。

 自分の神と会い、対話するための場としてこれらの空間だけを拝借する。宗教施設として建てられた教会や寺院は、祈るための場所であるから、神聖で荘厳な雰囲気に包まれている。そういう空間のなかに置かれると、気持ちを自然に切り替え、神と会いやすくなる。無宗教・有信仰の私は、特定の宗教の特定の神ではなく、自分の神と会い、対話する。

 宗教は、特定の偶像や聖典ないし教義を信者に提示し、説教する。それは、生身の人間が本能や欲望を抑制できないことを前提とした他律、いや正確にいうと他律をもっての自律形成が目的である。外注型の宗教と違って、信仰は、聖書も牧師の説教も不要とする、神の内製化である。生身の自分と対話するもう1人の自分が即ち我が神である。

 我が神が私に教えてくれた、最も大切なことは、「神頼みするな!」

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