階級社会の真実(16)~アウシュヴィッツの囚人、そして主人を選ぶ奴隷

<前回>

● 麻薬が必要だ

 「階級社会の真実」というシリーズは、どういうものか、執筆の背景を説明しよう。仕事柄、企業(大企業が多い)経営者・幹部向けの研修クラス用の教材を執筆・編集するにあたって、その下ごしらえ作業から派生した副産物である。

 その性質から、支配者・ガバナーのための帝王学、統治・支配のための戦略構築、そして支配・管理運営の合理性・効率性にターゲットや焦点、諸要件が設定されている。

 従って、逆方向である、統治され、支配され、管理される側の目線からすれば、いささか異様に見え、冷徹さよりも冷酷さすら感じてしまうこともあろう。視座、目線など諸要件の設定モードによっては、事物の異なる側面が異色な形として表出される。

 「話を聞いてくれる?」。現代社会のほとんどの人(大衆)が求めているのは、傾聴、理解、同調、同情という即効性のある麻薬である。私が執筆したシリーズは、そうした成分を含んでいない。ただただ冷酷な真実をさらけ出しているだけだ。

 宗教についてもう少し補足したい。三大宗教ないし新興宗教の教義、そのほとんどが、非の打ち所がない。ほぼ正論だ。にもかかわらず、世の中は戦争や紛争が絶えることがない。なぜ?宗教は、下層階級を効率的に統治・支配するためのもの(麻薬)である一方、国家や世界、政治や経済を牛耳る支配者・上層階級は、暗黙の「但し書き」で例外扱いされているからだ。

● 幸せなアウシュヴィッツの囚人

 階級社会における宗教と幸福について、こんな主旨のコメント(原文に基づき、私が集約したもの)がある――。

 「下層階級に属しながら宗教上の信仰を持ち、幸せを感じ、暮らしている人もいる。諸資源の不足により、社会的に成功できない人は一定数いる。ただ、彼らの一部は、社会的な成功に無関係な世界におり、そこに安住して幸福感を味わい、勤勉に働き、搾取されつつも一生を送ることから、人生の意義を見出している。たとえアウシュヴィッツの囚人でも、幸福感に包まれつつ死を迎えた人間もおり、彼等は別の価値観の中に生きていたと言えよう」

 素晴らしいコメントだ。被支配者が反抗せず、苦痛を感じず、しかも幸福感を味わい、搾取され、支配されるという状態。これは正に、帝王学に則り、統治者・支配者階級が目指すべき究極の「被支配者像」である。現代経営学の洗練された用語に置き換えると、「自走型組織」の出来上がりだ。

● 奴隷が主人を選ぶ

 政治体制、社会的仕組みをマクロ的に捉えると、独裁専制と民主主義の本質的な違いはたった1つ――。前者は奴隷が主人を選べないのに対して、後者は選べる。民主主義投票制とは、奴隷が主人を選ぶ制度である。しかし、奴隷は奴隷であり続ける。

 民主主義制度の良さと言えば、数年に1回の祭りがあることだ。それが選挙日であり、その日に限って、奴隷が主人になれる。後は奴隷である。ルソーが「社会契約論」にこう語る――。

 「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる。自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、自由を失うのも当然と思われる

 最後の一句に注目してほしい。それは何を意味するか。つまり、「自由を理解できない者には、自由を享受する自由はない。奴隷はいつまでも奴隷だ」ということだ。

 奴隷が主人を選ぶ。主人が変わっても、奴隷は奴隷だ。奴隷であり続ける。自然の摂理であり、不変の法則だ。

<次回>

タグ: