階級社会の真実(20)~貧困と自己責任、福澤諭吉「源因の己論」

<前回>

● 富と自由の放棄、そして自己奴隷化

 階級といえば、不平等や不公平がつきものだ。しかし、階級に関係なく、人間は誰もが生来、唯一平等に与えられる富がある。それは、時間だ。時間という富は正確にいうと、資源である。この資源をどう使うかは、その人次第だ。

 スマホを手にし、指を滑らせる。コミュニティの会話に乗り遅れまいと、時々刻々追いかける人たちがいる。ネット上では、誰もが意見を発表し、情報が溢れている。情報の価値が落ちる一方、エンターテイメント性が劇的に向上し、人々を堕落させる。大衆階級は自ら時間資源を差し出し、自己奴隷化していく。

 マルクスの時代は、資本家階級と労働者階級という階級の対立と闘争が顕在的で、分かりやすかった。革命歌「インターナショナル」にこのように描かれている(抜粋)。

 飢えた者達の、奴隷達の社会の全てよ
 圧迫の世の全てを根底から破壊し、そして我ら自らの、新世界を建設する
 無でありし者達が、全てとなるのだ
 何者も、我らに解放は与えぬ
 我ら自らの腕により、自由を獲得するのだ

 今は、どうだろうか。

 飢えていない者達の、奴隷達の社会の全てよ
 搾取を引き受け、建設した我ら自らの新世界は、自己圧迫の世界である
 思考の無でありし者達が、全てとなるのだ。
 何者も、我らに解放を与えるな!
 我ら自らの意志により、自由を放棄したのだ。

● 貧困と自己責任

 「貧窮困窮をもって怨望の源とせば、天下の貧民は悉皆不平を訴え、富貴は恰も怨の府にして、人間の交際は一日も保つべからざる筈なれども、事実において決して然らず、如何に貧賎なる者にても、その貧にして賎しき所以の源因を知り、その源因の己が身より生じたることを了解すれば、決して妄に他人を怨望するものに非ず」

 ――福澤諭吉の名著「学問のすすめ」の一節。

 ここで言っている「怨望」は、「ルサンチマン」に近い意味で解釈されるべきだろう。貧困者や弱者(下層階級)が富裕者や強者(上層階級)に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことを言う。 元々はキェルケゴールが提唱した哲学上の概念であって、ニーチェの「道徳の系譜」(1887年)やマックス・シェーラーの「道徳構造におけるルサンチマン」でも取り上げられている。

 福翁いわく「世の中の貧乏人はみな不平を訴えて、金持ちは恨みの的となって、人間社会は一日も持たないはずだけれども、事実はそうなっていはいない。いかに貧乏で社会的地位が低くても、その原因を知って、それが自分の責任であることを理解すれば、決してみだりに他人を恨んだりはしないものである」(「現代語訳・学問のすすめ」斎藤孝訳)

 この一節を今日の日本に照らしていささか異論を招来しかねない。いや、大衆に叩かれるだろう。

 思うに、「自己責任」と「貧困」は必ずしも必然的かつ唯一の因果関係を成すとは限らない。自己責任によって貧困に転落する人もいれば、他者責任に起因する人もいる。あるいは原因が半々だったりいろんなパターンがあるだろう。福翁が指摘する「その源因の己が身より生じたること」とは、原著の文脈から、「学問」に強く関連付けられていることが分かる。学問を積極的にしない、それを怠ったことで「自己責任」を問われているのである。

 「自己責任」とは英語では「self-responsibility」といい、ネガティブなイメージはない。「自己責任」からは成功も失敗も、幸福も不幸も生まれ得る。故に中性的表現である。「自己責任」と対置される「他者責任」は、他力本願の依存心の表出、それこそ自分に対する無責任さにほかならない。

● 学問とは読書ではない

 さらにその「学問」の定義が非常に重要で、決して単なる知識の吸収だけではない。世の諸種の「現象」からその「本質」を抽出し、実生活に生かしていく、という広義的な「学問」を指している。

 ただ、読書だけでは、学問を得られない。書数千冊だとか、年に数百冊の書物を読破するとか、読書家は知的感満点で絶対善とされるのが一般的だが、この常識を喝破するのは哲学者のショーペンハウアーであった。「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく」

 思索である。読書ができても、思索ができるとは限らない。「思索を呼吸のように自然に行うことができるほど天分に恵まされた頭脳」と、ショーペンハウアーはこう形容し、「思索向きの頭脳と読書向きの頭脳との間に大きな開きがある」と指摘する。

 「多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る」。耳が痛い。「学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである」

 世界という書物を読破するには、自分がしっかりした思考と思想を持つ以外方法は皆無だ。「我々が真の意味で十分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない」

 残念ながら、この境地に到達できる人はごくごく僅かしかいない。故に、少数が大多数を支配する階級社会は、自然の摂理であり、消えることはない。民主主義や独裁専制といった政治体制には無関係だ。

<補足編>世界を読み解く、民主主義下でもなぜ大衆が搾取され続けるのか?
<終わり>

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