マレーシア移住(30)~Give and Take、海外日本人コミュニティーの無力さ

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 私の「和僑 vs 華僑」論に対して、和僑会創設者・和僑総会会長筒井修氏から次のコメントを寄せられた(2015年6月)――。

 「確かに華僑と和僑とでは設立動機、歴史は全く異なりますが、海外で起業する日本人が助け合うこと、素晴らしい日本の文化を海外に伝えていく役割もあるのではないかと思っています。これから、先ず私達が世界の日本人ネットワークを作っていくつもりです。年月をかけて…」

 「日本文化の海外への発信」と「日本人の助け合い」の2点を取り上げたい。

 まず、「日本文化の海外発信」。文化発信を目的とするボランティア活動や非営利事業を別として、企業の営利事業ベースにおける「日本文化の発信」にフォーカスすると、筒井会長の「文化発信の役割もある」の「も」という表現からも受け取れるように、文化発信はあくまでも営利事業の付帯的、従属的、副次的産物と位置づけられる。

 故に、主たる本業の成否は、まず優先的に評価されるべきだろう。本業が失敗したら、文化の発信も、雇用や納税などの社会貢献もできなくなってしまう。さらに言うと、「日本文化の発信」それ自体に大きな問題が存在している。この話は別途述べることにしよう。

 次に、「日本人の助け合い」。「助け合い」とは、「助ける側」と「助けられる側」の互恵関係を意味する。しかし、他人を助ける力と余裕を持つ人は、助けられることを必要とするのだろうか。そして、助けられることを必要とする人は、他人を助ける力や余裕を持っているのだろうか。つまり「Give & Take」のバランス関係が成り立たないことだ。

 和僑会に限らず、多くのコミュニティーにおいても同じ。多くの日本人は、「教えてもらう」「助けてもらう」といった「Take」目的で入会し、活動に加わるが、自らいかに「Give」するかを考えていないし、行動を起こす形跡もない。そうした会はせいぜい同好会程度のものでしかない。

 GiveとTakeの正比例関係、華僑コミュニティーのルールはどうなっているのか、紹介したい。先日、某華僑系マレーシア人A氏と話をしたら、最近「華僑会」(華商総会)ネットワークでこんな案件をやっているそうだ。

 南アジア某X国のインフラ建設の政府入札情報を、X国の華僑B氏が持ってくる。そのB氏はX国政府へのロビー活動・売り込み役も兼ねているようだ。華僑会は案件のコーディネートをし、A氏のほうは高速道路建設の設備部分と公務員住宅団地造成の投資部分を割り当てられる。そこでA氏が私にも話を持ってくる(私のことも華僑扱いにしてくれている)。某東アジアY国やZ国で、設備製造やデベロッパー関連資源の手配はできないかと私が打診される…。

 このように、華僑ネットワークを通じて最終的に、全体的パッケージを組んでX国にプレゼンして落札を目指す…。インフラプロジェクトの金額は想像もつかないほど大きい。0.5パーセントの利益だけでも莫大である。基本的に日本なら総合商社あたりの仕事とコーディネーションを華僑が牛耳っているわけだ。
 
 華僑会自体は、「Give and Take」でメンバー間の相互協力を主旨に掲げているが、実質的に「Give」ができない人は存在価値がどんどん落ち、疎外されてしまう。もちろん、「Give」の実績を積み上げないと、会の幹部にはなれない。「Give」を多くすればするほど「Take」のチャンスが増える。「Give」とは非常に多義的なものである。そういう意味で華僑会や華僑組織の上層部というのは、和僑会のような会員活動やイベントの事務局的な機能とはまったく異次元の存在といえよう。

 私の周りには、「和僑会」に対する賛否両論がある。私自身も「和僑会」で講演したことがある。この十数年、会の組織自体が急速に肥大化しているにもかかわらず、その量に正比例した質の進化が見られていない。というのが私個人の率直な感想である。

 「華僑」に因んだネーミング、「華僑に学ぶ」ことを唱えているだけに、うわべの華僑コミュニティーを真似するだけでは浅薄すぎないか。「華僑」の本質とは何か、掘り下げてほしいものだ。いつまでも「中小零細企業社長・個人事業主の集い」というのも1つの存在ステータスではあるが、世界で華僑を凌駕する和僑社会の構築が目標であれば、達成不可能と言っていい。

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