華僑や華人を語る前に、まずここ十数年に流行り出した「和僑」という概念がある。「和僑」というのはそもそも、「華僑」に因んで作られた言葉だ。しかし、「華僑」と「和僑」の本質的な相違に気付いたのだろうか。
まずは、哲学の相違――「根っこの持ち方」と「退路の持ち方」
「華僑」のほとんどが歴史的、政治的に本国から半分追い出される形で故郷を捨てて海外へと向かったのだった。中国語で「背井離郷」と「落地生根」という2つの言葉がある。「遥か故郷に背を向けて遠く離れ、異国の地に渡り、その地に同化し、子孫を作り、その地の土に帰る」という人生観と死生観があって壮絶感が漂い、いわゆる根こそぎの海外移住であった。
「和僑」は、華僑1~2代目のような壮絶物語を持ち得ない。海外でうまくいかなかったら日本に帰れば良い。「海外に骨を埋める」という人も稀にいるが、大方の日本人は、結局「根っこ」や「退路」が日本に残されている。
次に、戦略の相違――移住先国現地の経済や政治への食い込み
「華僑」は移住先の国々では個別の起業にとどまらず、その国の経済ないし政治にまで食い込んでいく。東南アジアにおける華僑系の財閥をはじめ、産業全体への浸透から金融の掌握まで戦略的なアプローチはそう簡単に真似できない。その辺の団結力は、日本人の「ムラ的」な団結力とはまったく異次元のものである。
さらに政治面においても実力をどんどん手中に納める。華商総会などの華僑団体が大きな票田を形成し、政治へのロビー活動は日常的に行われる。上を見れば、タイのタクシン元首相やその妹であるインラック元首相、コラソン・アキノ元フィリピン大統領、ミャンマーのネ・ウィン元首相、テイン・セイン大統領といった首脳陣はみな華僑の血を引いている。
その壮大なスケールに到底及ばない「和僑」勢は、歴史的後発という劣位性に直面しつつも、どのような戦略を取るか、まず見定める必要もあろうが、その辺は残念ながら何も見えていない。個別の起業成功事例の学習も大切だが、それ以前の課題で、「和僑」という概念において戦略的な俯瞰がなされていない。
最後に、思考の相違――「性善説」と「性悪説」
華僑コミュニティーは一見「信用」や「信頼」で固められているように見えても、その「信頼」は、裏切り行為に対する周到なリスク管理と罰則によって裏打ちされ、つまりは「性善説」は「性悪説」を基礎や基盤としているのである。しかし残念ながら、多くの「和僑」はいまだに防御なき性善説の世界から脱却できずにいる。
このような本質的な相違を乗り越えなければ、「和僑」から世界に知られる大物企業家や政治家が生まれることは絶望的である。