「らしさ」の恐ろしさ、「他人らしさ」と「自分らしさ」

 立花が嫌い。

 フェイスブックなどのSNSではそういう方が多い。だが、ブロックはしない。しぶとく私の投稿を見ているし、コメントも書き込むと。その心理は何だろうか。コメントの行間を読むと、何となく見えてくる。

 「立花さんの今回の投稿は、立花さんらしくない」という評価はよく目にする。要するに、その人の期待している「立花」になってほしいという、私に対する苦言なのだ。

 しかし、「立花らしさ」、私にとっての「自分らしさ」は、私自身が決めることで、なぜ勝手に他人に決められなければならないのか。一々異なる他人の「立花らしさ期待」に応えていたら、それこそ、立花でなくなる。

 他人を自分の期待していた「らしさ」に改造したい。しかし、人間は基本的に変わらない。そんなことに貴重な時間を費やすのはもったいな過ぎる。他人は他人、自分は自分。その他人があまりにも自分の価値観に合わないのなら、ブロックして棲み分けすればすっきりするのに、それができない。

 メディアも同じことに直面する。産経は産経らしく、朝日は朝日らしく、それぞれ読者の期待する報道から外れたら、「らしくない」苦情が殺到する。先日、私の投稿に「まるで朝日新聞の社説のようだ」というコメントがやってきた。それもまさに「らしさ」追求の証だ。

 私はジャーナリストでもメディア経営者でもないので、「いいね」が減ろうと読者・FB友離れが増えようと一向にかまわない。しかし、発行部数やアクセス数で生計を立てる者はそうはいかない。当然読者・視聴者の期待に応えるべく、ネタを厳選し、論調も一行の方向に固定しておかなければならない。

 私は自分の原理原則に照らしてものを書いているので、気が付けば、いわゆる右も左も両方入っているわけだ。これはメディア・ビジネスのタブー。「らしさ」が消えることは、マーケティング学でいえば「ポジショニング」や「差別化」の失敗にあたるからだ。

 立花がメディア・ビジネスを経営したら、間違いなく失敗する。断言してもいい。

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