楽譜が読めない、素人のオペラとクラシック音楽体験談

 私は楽譜を読めないクラシック音楽愛好家である。クラシック音楽に開眼したのは、30代前半香港駐在中だった。顧客企業である某都銀の日本人A氏がオペラを薦めてくれた。

 クラシック音楽はとっつきにくいので、まず歌詞のつくオペラから入ろうと。歌詞がついているから、情景や劇中人物の感情が分かりやすい。特に叙情的、情熱的、旋律的な特徴の強いアリアや愛憎うずまく二重唱を薦めてくれた。なるほど納得。美味しいワインを飲みながら、私は心地よい古典の世界に引き込まれた。

 オペラが2~3年続いたら、だんだん物足りたくなってきた。A氏が描いたシナリオ通り、少しずつ「単純な音楽」に興味をもつようになった。大変不躾なことをいうと、ベートーヴェンの交響曲第9番から合唱を抜いたらどうかとも妄想したりした。オペラの歌唱と同じように、合唱の歌詞が文字である以上、内容や感情表現がほぼ決まってしまうからだ。

 単純な音楽なら、聴衆がもっと自由に理解し、独自の感情表現(想像)ができる。と、音楽素人の私が勝手に思った。

 エドゥアルト・ハンスリック(音楽評論家・哲学者 1825年9月11日―1904年8月6日)は、『音楽美論』の第2章で、歌劇の1節(アリア)を取り上げ、悲しみと喜びという正反対の歌詞を置き換えても、何ら違和感のないことから、音楽そのものは何も表現していないことを例証した。

 ハンスリックは、純粋で絶対的な音楽を最上のものとし、音楽における感情支配を否定し、音楽の美は形式の中にのみ存在することを提唱している。でも、振り返ってみると、私の場合、初期段階のオペラ鑑賞で歌詞や情景による感情支配がなければ、そもそも今でもクラシック音楽に無縁だったかもしれない。

 今の私はオペラを決して捨てたわけではない。合唱も嫌いではない。マーラー交響曲第2番なら、最後の合唱があってこその「復活」、神による支配に身を委ねる昇天感があってこその2番だと思うし……。同時に「純粋音楽」から、そのときその場の自分によって自分なりの解釈を得、感情を抱く自由をも享受している。

 支配体験が自由を理解するための経路。被支配と自由は決して矛盾ではない。ヘーゲルの弁証法におけるアウフヘーベン(止揚)という概念を用いて、この関係を解釈できる。

 コロナ期間中のゴールデンウィークは、絶好の機会である。是非、クラシック音楽がとっつきにくいと思う皆さんはこの際、解説や歌詞とにらめっこしながら、オペラ鑑賞でもいかがでしょうか。YouTubeなら、タダだし。

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コメント: 楽譜が読めない、素人のオペラとクラシック音楽体験談

  1. 若い頃、クラシックを聞いても何も感じなかった。
    年を重ねると、クラシックの美しさに魅了されるようになった。
    100年前の作品が今も色褪せしないクラシックは神からの賜り物だと思う。
    オペラも今度聞いてみます
    ありがとうございます

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