『田園』と『運命』、ベートーヴェンが残した仕事とは?

 誰もが知っている名曲、ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』と第5番『運命』。実はこの2曲は、同時に作曲され、同時に初演されたものだった。そういう背景もあって、この2曲は「双子の交響曲」とも呼ばれていた。

 難聴を発症し、絶望のどん底に陥ったベートーヴェンが作曲したこの2曲は、まさに明暗・陰陽の対照といって差し支えない。ベートーヴェンがどんな心境でこの2曲の作曲にあたったのだろうか。よく聴いていると、2曲ともに実は明には暗、陰には陽が混ざり、両者が交差しているように感じてしまう。

 のどかな田園風景にときには、陰鬱なムードが漂ったり、絶望のどん底には、意志と闘争の力強さを感じさせたり、そうした二極の相互乗り入れは、何かを示唆してくれている。その「何か」とは何だろうか?私はずっと考えていた。言ってみれば、『田園』と『運命』を織り交ぜ、1つの大きな交響曲を作り上げても、おそらく違和感はなかろう。

 その作業は、われわれ一人ひとり自分自身の人生を通して、行われなければならない。

 定義付けに戻ってみる。田園風景の「美・善」と病の「醜・悪」、このような二極的要素がつねに人生のあちらこちらに散りばめられているし、時と場所によっては互いに浸透し合っているようにも思える。つまり、ハーモニーなのである。ただわれわれ人間は、自らの都合のいい悪いで二極化しているだけではないかと。

 「難聴という病の苦難を乗り越え、世紀の名曲を創り上げた」と、大方の音楽評論文章にはこのように書かれている。思うには、「苦難を乗り越えた」かどうか、定かではない。だが、「苦難との乗り合い」という表現だけが「真」だ。

 「美・善」「醜・悪」のどちらも「真」をベースにしている。これだけは、紛れもない事実であり、「真」だけは「真」であるからだ。

 「真・善・美」。「真」に対する解釈(感受)からは、「善(悪)」や「美(醜)」が生まれる。ニーチェいわく「事実というものは存在しない。 存在するのは解釈だけである」。だとすれば、「苦難を乗り越える」も「苦難との乗り合い」も各人の解釈に過ぎない。

 音楽とは、一人ひとりの人間に「解釈の空間」を与えるものだと、私がそう解釈している。ベートーヴェンが残してくれた仕事、その意義はまさにそこにあるのではないかと。無論、これも一種の解釈である。

 哲学は、解釈の求め方を教えてくれる。音楽は、解釈の自由を与えてくれる。

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