立花聡の「非王道」極論、エゴイズムの何が悪い?

 ベトナム人や中国人はエゴイズムだと考えている日本人がいる。エゴイズムの謎を解いてみよう。

● 「エゴイズム」の何が悪い?

 「君はエゴイズムだ」と言われると、反発されるだろう。時には大喧嘩になることもあるだろう。そこで胸を張って、「そうだ。私はエゴイズムだ。だから、何が悪い?」と反論してきたり、あるいは、「あなたこそ、エゴイズムをよく理解できていない。それこそが悪いんじゃないですか」と反撃まで仕掛けてきたりする人はいるのだろうか。

 もしそうなった場合、日本人はどう答えるか。「エゴイズムは悪いに決まっているだろう」と、定言命法の回答を持ち出すに違いない。

● 「定言命法」とは?

 「定言命法」とは何か?

 人間の意志を制約する道徳法則のうちで、人間一般に無条件に当てはまるものをいう。「自分の行為の原則が常に誰もが従わなければならない原則に合うように行為しなさい」という意味であり、道徳は、状況や条件によって左右されてはならず、無条件の命令や義務でなければならない。つまり、「定言命法」とは、「~しなさい」「~すべし」という形式となる。

 哲学者カントによれば、真の道徳的行為であるために、自己の利福(自己利益)を度外視した、人助けそのものを目的とする定言命法でなければならないのである。

 これに照らして、「エゴイズム」は自己利益優先である以上、定言命法によって、「悪」として否定され、排除されるべきであろう。逆に、「滅私奉公」が正しい道徳的行為として、定言命法に合致し、従業員の意志を制約する道徳法則として無条件に実施されるべきであろう。

 ところが、現実に目を向けると、「滅私奉公」はなかなか見られず、いつまでも「エゴイズム」が横行しているのではないか。それはなぜだろうか。

 これを説明するにはやはり、哲学者や自然科学者の理論を用いなければならない。

● 「3つの理論」で「自己保存・強化原理」を解く

 3つの理論がある。

 第1の理論は、スピノザの「自己保存論」である。オランダの哲学者スピノザは、「自己保存」論を主張する。自己保存の努力は徳の第一義的かつ唯一の基礎である。この原理をなくして、いかなる徳も考えられ得ないからである。つまり、「自己保存」というは、単なるエゴイズムではない。ただ理性の導きにのみに従い、自己の利益を追求することである。

 第2の理論は、哲学者ニーチェの「力への意思論」である。上記のように、スピノザの哲学の中枢をなす概念は、すべてのものが自己を保存しようとする衝動(コナトゥス)を備えているということにある。ニーチェはこれに賛同しながらも、さらに、単に「自己保存」するのではなく、それを強化し、活気づける力が必要だと考えて、それを「力への意思」という概念に発展させたのである。

 そして、第3の理論は、自然科学者ダーウィンの「進化論」である。生物は絶えず「生存闘争」をしているので、必然的に生存闘争で優位に立つものが生き残る。いわゆる淘汰という現象だ。俗に弱肉強食という言葉があるが、ただ、必ずしもそうではない。「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」というのが、ダーウィン理論のエッセンスである。

● エゴイズムはある意味での正義である!

 平たく言えば、こういうことになる――。

 人間は生き延びようとする「自己保存」の本能を持っている。生き延びるために、つねに「自己強化」しようとする。その自己強化は、生存闘争で淘汰されないために、先行的優位性を確保しようとするものである。その強化行為は、体力、知力および順応力という総合力量の増強である。

 この通り、エゴイズムを道徳的に否定する定言命法と反対方向に結論が導き出されているのである。この目線から見れば、エゴイズムは相対的正義を持つ。

 いや、でもそんなことを言われても、企業内ではまさか従業員に、エゴイズムを大々的に推奨するわけにはいかない。この矛盾の正体とは何か?どう解決すればいいのか。掘り下げていこう。

● 「エゴイズム」の内実とは?

「エゴイズム」とは、漢字で「利己主義」と書く。自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方を指している。漢字表記のほうが分かりやすいので、ここからは漢字を使わせてもらおう。この通り、厳格にいうと、「利己不利他主義」、あるいは「利己害他主義」である。どうやら問題は、「不利他」「害他」のほうにあるようだ。

● 「利己行為」と「性悪説」

 人間の本性は善か悪かについて、目下定説はない。ただ、現実の社会環境とその中に置かれた人間の行動を理解する上では、性悪説を支持する人が多いようだ。

 性悪説を裏付ける説明としてしばしば言及されるのが、環境や教育の影響を受けていない赤ん坊を観察してみれば、その行動がすべて利己的であることは一目瞭然であるというものである。利己的であることは一般的に悪と見なされる。従って、人間の本性は悪であるという結論に至る。しかし、利己的であることは本当に悪だろうか。確かに善ではないかもしれないが、善でないことが、すなわち悪であるということにはならない。

 3つの理論に基づいて導き出された「自己保存・自己強化」の原理も、「利己=悪」を否定している。

● 「害他性」の有無で「利己」を見るべきだ

ニーチェが「善悪の彼岸」でこう述べている。

 「利己主義を否定するすべての道徳は、無条件的に妥当するものとして、すべての人に適用されるべきものと考えられているが、それは趣味の悪さという罪を犯しているだけではなく、必要な行為をしないですませようと誘惑する罪を犯すものである。むしろ博愛という仮面をかぶって、人々を誘惑するものなのだ。――そしてこの道徳は、より高き者、稀有なる者、特権を与えられた者たちを誘惑することで、こうした者たちを傷つけるものなのだ」

 一般に利己とは、他者を害し自己を利する言動および心理と解釈されている。まず、この規定に大きな問題がある。人間の本性が善か悪かを論じるにあたり、人間の本性は善悪とは無関係、つまり人間の原初的本性は、善悪とは関わりのない動物の本能に過ぎないという可能性を見落としているからだ。

 だとすれば、利己とは自己を利する言動および心理であると解釈するべきだろう。両解釈に共通するのは利己の出発点であり、異なるのは他者を害するかどうかである。他者を害することが悪であることに疑いの余地はないが、自己を利することが悪であるとは言い切れない。自己を利することが他者を害することであるとは限らないからである。

 したがって、短絡的に利己が悪であるとは言えない。「害他性」の有無で判断すべきだ。

 人間の本性は利己的であり身勝手である。ここに異論を差し挟む余地はない。しかし、利己的であれば必ず他者を害するという論理は成り立たない。その反証となる事象は日常生活の中でも多く見られ、中には利己の本性から出た行動で他者結果をもたらすことすらある。

● 人間の根源は利己心

 このような利己を悪と言えるのだろうか。事実、人間の言動はすべて利己心から発している。これを哲学的に解釈するなら、「人は生涯、自己改善と自己実現を追求する。そのとき、中核となるのは自我であり、自我のない自分など、もはや自分ではない。自我のない自分に存在意義はない。利己とは自我の根源的な発現である」ということになる。

 以上の議論から導き出されるのは、次の2点である。

 その1、利己とは自己の利を求めることであり、それは必ずしも悪ではない。利己の結果は善にも悪にもなりうる。ゆえに利己は善悪と無関係である。

 その2、利己とは人間の本性であり、自己探求や自己実現、自己改善を図ることであり、人間が生涯追求する目標、すなわち人生の意義の所在といえる。ゆえに、人間が自分の利己心を直視し、それを肯定的にとらえた上で、その充足を目指していくことは、何ら恥じるべきことでもないのである。

 ここまでは、利己は善悪と無関係であり、人間が自分の利己心を直視し、それを肯定的にとらえた上で、その充足を目指していくことは、何ら恥じるべきことでもないのだと、結論を導き出した。

● 国家ベースのエゴイズム

 トランプは米大統領に就任するや、「米国第一」主義、反グローバリズムの方針を鮮明に打ち出した。ローカリズム、単独主義・保護主義が先鋭化していけば、その先は国家ベースのエゴイズムにほかならない。

 民主主義で選ばれた国家リーダーは民意の総和集結として、最終的に打ち出したのはほかでなく、エゴイズムの集結ではないだろうか。それは、「米国第一」であった。そもそも、トランプ氏に向けられた矛先は、トランプ氏を選んだ大多数の米国民に向けられるべきではないだろうか。

 米国民だって、結局エゴイズムの集団である。それは、米国民だけであろうか。

● どこの国もどこの国民もエゴイズムの塊

 トランプが「米国第一」を打ち出すと、早速世界規模で数百万人の規模の反トランプデモが起きた。よく見るが良い。そのデモのほとんどが、既得利益喪失者層によるものだ。それ自体が、「自己第一」の表れではないだろうか。エゴイズムではないだろうか。であれば、「米国第一」は極めて当然な帰結であって、原点回帰にほかならない。

 そもそも、「自由、平等、友愛」というのは、人間の本性である自己中心・自己第一を抑制するために打ち出された道徳論に過ぎない。一種の「べき論」である。

 弱者救済のあげく、全員の共倒れになるよりは、適者生存原理に回帰するのが合理的な選択だ。トランプの「壁政策」によって、犠牲者が出るだろう。世界ベースで犠牲者が出る。その引き換えに米国の復活があるとすれば、それを道徳論で評して良いのだろうか。エゴイズムを批判して良いのだろうか。

 そもそも「自己保存」「自己第一」は自然界・生物界の不滅の法則であることを忘れるべきではない。

● エゴイズムの氾濫とグローバル化

 英国のEU脱退に続き、トランプ政権(当時)の米国も反グローバル化に走り出した。皮肉なことに、資本主義市場経済の元祖とも言える英米両国がそろって、反グローバル化のエゴイズムの道を選んだことは何を意味するか。

 エゴイズムは人間の本源的動機付けであり、原点回帰である。英米に先導された世界は大きく変わろうとした。それはゲームルールの変更であり、その変更の核心は「自国第一」にほかならない。やがて、エゴイズムが世界に氾濫すれば、それ自体がグローバル基準となろう。

● グローバル化は受益者たちの希望的観測だ

 知性は意志の奴隷であると、哲学者のショーペンハウアーがこう指摘する。

 人間はその知性で真の世界を認識することはできない。人間の知性は、人間の意志(こうありたい、ああであるべき)に従属しているからだ。世界を解明するよりも、自分に利害関係のある事柄にしか目を向けたり、知性を投入したりしないからだ。つまり、人間はつねに希望的観測に浸かっているのだ。

 グローバル化をなくしてまるで世界が崩壊するかのような言説を裏付ける認識と知性は、グローバル化よ永遠なれという意志に基づいている。その更なる裏には、グローバル化の受益集団の既得利益が存在しているのである。

 グローバル時代云々という全盛期だが、一転して非グローバル時代のサバイバル術を真剣に考えなければならないときがやってきた。棲み分け、ブロック化新時代の到来。この変化を大きなチャンスとして捉えて機敏に行動する者とそうでない者、明暗が分かれる。

 それ故に、企業経営レベルでは、従業員のエゴイズムを悪として扱うこと自体が非常識である。

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