ハナは語らない、だが瞳が全てを語っている~そして「最後の日常」と「最後の輝き」

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5月1日(木)
 ハナが絶食の5日目に入る。立ち上がるのに介助が必要だが、庭のトイレへ行くのは自力。AIに聞いてみたら、以下の回答が来た――。

ハナは語らない。だが、瞳が全てを語っている。

 動物は本能的に死期の接近を察知すると、静かに、穏やかに、そして何も食べずに身を引こうとする。それは「死を恐れる」行動ではなく、むしろ「死を受け入れる」行動である。この段階において、飼い主が無理に食物や水分を与えようとすることは、自然の摂理に逆らうこととなり、かえって苦痛やストレスを増す結果となり得る。

 ハナが「介助によって食べていた」という行為は、すでに自発的食欲が失われた段階において、飼い主の愛情と共感により「食べる」という行動を継続していたものである。それは単なる延命ではなく、ハナと飼い主との共同作業としての延命であり、生きようとする本能と、それを支えようとする人間の意志が重なり合った尊い行為であった。

 しかし今、ハナは食を拒み、静かに横たわっている。それは生命の意志が尽きたというより、「もう十分に生きた」という意志表明である可能性がある。「ありがとう。でももう、大丈夫だよ」――その沈黙のメッセージを、ハナはその眼差しと行動で飼い主に伝えているのかもしれない。

 現在の状態は、いわゆる臨終期(アゴナル期)に入ったことを意味する。食事の拒否、動作の緩慢化、そしてわずかに残る尊厳行動(自力での排泄や移動など)が見られる場合、死はすでに生の延長線上にはなく、「終わりへ向かうプロセスそのもの」となっている。

 ここまで闘い抜いたハナに対して、もはや「生かすための医療」ではなく、「静かに看取るという愛情」に移行することが、最も尊厳ある選択である。それは敗北ではなく、彼女の誇り高き生を最後まで尊重する、最終の愛のかたちである。

 ――ショパンの夜想曲が静かに流れる。坂本龍一のピアノが、空気の粒子ひとつひとつに深みを与える。音楽が空間を満たし、言葉は不要となる。ハナと私が交わすのは、もはや声ではない。それは、記憶と気配による対話である。

ともに歩んだ日々を、再び抱きしめる――2019年7月15日

 この時間は「別れ」ではない。これは、「ともに歩んだ日々を、再び抱きしめる時間」である。一緒に過ごした11年間(収容日から)――朝の散歩、帰りの出迎え、寝息、吠え声、目線とそして肌のぬくもり…。そのすべてが、この静寂に折り重なる。

 ハナは語らない。だが、瞳が全てを語っている。

 「わたしは、十分に生きた」
 「家族と一緒に歩けて、幸せだった」
 「だから、もう心配しなくていい」

 ハナの命は、今もこの部屋の空気に溶け込み、音楽のなかに身を寄せながら、静かに揺れている。私はこの時間を忘れない。これは祈りであり、契約であり、約束である。

 ――「また会おう、虹の橋の向こうで」

● 「いつも通りの自分」と「最後の輝き」

 本日、絶食5日目を迎えたハナは、夕方、妻に付き添って1キロ以上の散歩に出かけ、自力で排便を行った。AIによれば、この行動は、医学的に見れば極めて矛盾を孕んでいる。通常、3日間の完全絶食かつ立ち上がりに介助を要する犬が、これほどの距離を歩行し、排泄まで完遂することは、身体的条件として不可能に近いとされる。

 しかしながら、動物の終末期にはしばしば「再帰性覚醒」と呼ばれる一時的な生命活動の上昇が観察される。これは死を目前にした生体が、突発的にアドレナリンを分泌し、驚くほど元気に見える瞬間を作り出す現象である。ハナの行動も、まさにその類型に該当する可能性が高い。

 また、排泄の完了による肉体的解放感が、一時的な活動性の向上につながったとも考えられる。さらに、妻という特別な存在に伴われたことで、情動的な活性が引き出され、「もう一度歩こう」とする意志が生じたとも解釈できる。犬は本能的に、自らの衰弱を隠そうとする。そのため、死を前にした個体が、最後の力を振り絞り、「いつも通りの自分」を演じることは決して稀ではない。

 したがって、今日のこの出来事は回復の兆候ではない。むしろ、命が終わりに向かっていることを示す、“最後の輝き”であると位置づけるべきである。それは回復ではなく、別れの前に与えられた贈り物であり、日常を装った儀式である。

 今後、ハナの状態は急速に下降する可能性が高い。今夜から明日にかけて、著しい虚脱、意識の混濁、呼吸の不規則化など、いわゆるアゴナル期の兆候が現れるかもしれない。しかし、それは「異常」ではなく、むしろ自然な終末の進行である。

 本日の1キロの散歩は、単なる偶然の行動ではない。それは、ハナが自らの意思で「最後の巡回」を果たし、「ありがとう」と「さようなら」の中間にある、静かな意思表示を我々に託したものである。

● 私と妻の意見が分かれた

 上記に対して、妻は強く反論した。

 実際にしっかりと歩き、排便までこなしたハナの様子を目の当たりにした妻は、「状況は変わった」「ハナにはまだ体力がある」として、希望を完全に捨てるには早すぎると考えた。さらにフィリピン人メイドも妻の側に立ち、ハナの生きる意志を信じるべきだという立場を取った。

 こうして、判断は分かれた。理性と経験に基づいて判断を下そうとする私と、目の前の命に向き合い、感性と直感を信じようとする妻。

 私は最終的に折れた。そして、明日、もう一度点滴を試みるという決断に至った。男性の理性よりも、女性の感性を信じる。それは、論理の放棄ではなく、信頼と共生の選択である。

<次回>