思想は死に、感情が売られる時代――「反中」という自己矛盾の正体

● 中国製品抜きの生活

 2024年4月27日、米紙ニューヨーク・タイムズは「Your House Without China(あなたの家から中国製品が消えた場合)」と題する記事を掲載し、大きな反響を呼んだ。

 その主題は明快である。現代の米国人の生活は、中国製品なしには成立しない――という現実である。家電、衣類、家具、日用品、電子機器、玩具に至るまで、中国はもはや「供給元」ではなく、「生活の前提」と化している。仮に「中国抜き」で生活しようとすれば、製品の価格は跳ね上がり、選択肢は狭まり、生活の利便性は著しく低下する。

 実際、同記事の試算では「中国製品を完全に除いた生活」を構成しようとすると、家中のモノを置き換えるコストは最低でも1.5〜2倍、場合によっては3倍以上になるとされた。

 この構図は、日本にもほぼそのまま当てはまる。むしろ、日本人家庭の中国依存度は、米国を上回っている可能性すらある。

 財務省の貿易統計によれば、日本の輸入品に占める中国の割合は全体で約20〜25%、生活消費財に限れば35〜45%に達する。特に、衣類、家電、家具、100円ショップ商品、雑貨、調理器具、生活用品は、中国製が主流である。ニトリ、無印良品、ユニクロ、ダイソーといった日本人の日常に根づいた企業は、コストと供給の多くを中国に依存している。

 したがって、仮に脱中国を徹底すれば、日常生活に関わるあらゆるモノの価格は2〜3倍に上昇する可能性が高い。しかもこれは単なる価格問題ではなく、「そもそも代替品がない」品目すら存在する。

● 奇妙な「反中現象」

 このような状況下で、奇妙な現象がある。それは、日本の「保守右派」を自認する層の多くが、強烈な反中・嫌中感情を示していることである。彼らは「中国を潰せ」「中国製は買わない」と主張する。しかし、興味深いのは、こうした言説を唱える人々の中に、実際には高所得層ではなく、むしろ中下層または生活困難な立場にある人々が多く含まれているという点である。

 彼らの生活は、中国製品に支えられている。安価な衣服、日用品、家電、家具、食料品の包装、あるいはスマホのアクセサリに至るまで、彼らが「日々消費しているもの」の多くが中国製である。にもかかわらず、彼らは中国を嫌悪し、断絶を唱える。この構図は、思想的な立場というよりも、心理的な安心を得るための感情的なポーズである。

 そこにあるのは、記号としての「保守」であり、論理としての保守思想ではない。「中国を嫌う=日本を守っている自分」という自己正当化の構図が先にあり、その実態との整合性は問われない。彼らにとって「反中」は、自己の存在を意味づける象徴的な言語行為なのである。

 この構造の背景には、リベラル陣営の失敗もある。グローバル化を推進し、中国との経済連携を深化させてきた政治的・経済的エリートたちは、地方や労働者階層の苦境に十分に寄り添わなかった。その結果、「お前たちは見下してくるくせに、中国とは手を組むのか」という被害者意識と裏切られた感情が噴き出した。

 反中言説は、単なる外国嫌悪ではなく、国内エリートへの報復心理の代償的表現でもある。

● 「中国依存」の本質

 しかし、いかなる政治的立場を取るにせよ、現実を見誤ることは、自己破壊につながる。「生活は中国に支えられているが、心情的には中国を否定したい」という分裂的態度は、やがて制度・経済・文化の選択において非現実的な選択を誘発する。そしてその代償は、結局最も弱い生活層に跳ね返ってくる。

 中国依存は好むと好まざるとにかかわらず、もはや「選択」ではなく、「構造」である。この構造を冷静に認識したうえで、どう距離を取り、どう分散し、どう補完するかという戦略的思考こそが保守である。情緒的に中国を敵視しながら、現実に中国製品に支えられて生きるという構造は、思想ではなく自己矛盾の感情共同体にすぎない。それは保守ではなく、幻想である。

● イデオロギーの商品化

 現代において、「イデオロギー」はすでに思想でも運動でもない。それは特定の層――とりわけ不安と不満を抱えた大衆層――に向けて販売される感情のパッケージ商品である。

 保守であれ、リベラルであれ、そこで語られる内容は、論理の体系ではなく、共感の符号、敵意の誘導、自己正当化の物語に過ぎない。そしてそれを「提供する側」は、思想家ではなく、イデオロギー産業の業者=思想商人である。

マルクス主義の逆転

 マルクスが提起した上部構造/下部構造の枠組みによれば、イデオロギーとは経済的土台によって規定される“意識の反映”であるとされた。しかし現代においては、逆に「上部構造(言説・記号)」が自己完結的に生産・消費され、下部構造のリアリティから乖離している。
その意味で、マルクスの図式はもはや逆転しているか、あるいは完全に機能不全に陥っていると見るべきである。

 今日の「保守言説」「愛国ナラティブ」「反グローバリズム」も、「社会正義」「LGBT擁護」「ダイバーシティ」も、その多くは特定の情動層にリーチするための広告言語に過ぎず、現実の構造的問題を解決するための思考体系ではない。つまり、もはや「イデオロギー」などというものは当初から実在せず、それらしきものが“存在しているように演出されてきただけ”である。

● 感情経済の時代と「思想商品パッケージ」

 その演出を担っているのが、メディア、インフルエンサー、論壇、出版、政党、YouTube、X(旧Twitter)といった「意識産業」であり、そこでは「誰が勝つか」ではなく、「誰がうまく“感情を梱包して売れるか”」が成功の指標となっている。中身は空洞で構わない。炎上、煽動、敵味方、感情の快楽が継続されれば、あとは収益だけが増える。

 この構造において“思想”とはもはや生産されていない。生産されているのは、「思想のようなもの」をまとった商品パッケージであり、消費可能な怒りや愛国心や被害者意識である。大衆の側もそれを理解していないわけではない。しかし、生活は苦しく、孤独であり、怒りは澱んでいる。そのとき「敵がいる」「自分は正しい」「あいつらが悪い」と言ってくれる商品を、思想だと信じて消費するのが現代の群衆の行動様式である。

 ゆえに、「イデオロギーが民衆を導く」という図式は幻想であり、むしろ民衆が情動によってイデオロギー商品を“選んでいる”のである。
思想の時代は終わった。今あるのは、“思想風商材”をめぐる感情経済の時代である。

● 中二階型イデオロギー

 マルクス時代におけるプロレタリアとブルジョワジーの階級闘争は、下部構造(経済的所有・労働関係)に起因する上部構造(意識・政治)の衝突であった。そこには搾取と労働という物理的リアリティがあり、階級対立は具体的かつ視覚的に把握可能であった。工場、賃金、剰余価値、暴力、革命――闘争の構図は単純であり、したがって闘争も可能であった。

 しかし現代資本主義においては、資本家と労働者という対立構造は表面上の意味を失い、代わって出現したのは、「自己責任」「機会平等」「選択の自由」「民主主義」などのプロパガンダによって、搾取を“同意に偽装する”構造である。人々は働かされているのではない。「自ら望んで働いている」という幻想によって、自らを管理し、消耗させていく。

 この過程において重要な役割を果たしているのが、“中二階的イデオロギー”の存在である。かつてのイデオロギーが階級や国家という明確な対立軸に基づいていたのに対し、現代のイデオロギーは、あたかも「中間階層」や「文化的アイデンティティ」や「情報空間」や「SNS的承認」に紛れ込み、人々を「搾取者にも被搾取者にもならない中間的立場」に置くことで、自らの位置を錯覚させる。

 たとえば、インフルエンサー、フリーランス、クリエイター、サイドビジネス、自営業、副業といった新自由主義的美辞麗句の下で、実際には労働の保障もなく、資本による評価とアルゴリズムによって収奪されているにもかかわらず、本人は「自分で選んだ」「自分の力で稼いでいる」と感じている。

● 持続可能な能動型自己搾取

 つまり、搾取されながら搾取されていることに気づかない、プロパガンダによって感情が麻酔された状態が広がっている。

 しかもこの構造は、民主主義という概念の下に“正当化”される。「みんな同じ選挙権を持っている」「表現は自由だ」「チャンスは誰にでもある」――こうした標語が、現実の経済的不均衡、教育格差、情報支配、心理的搾取を覆い隠す。人々は現状に疑問を持ちにくくなり、「自己責任」の言葉によって自己を処罰する。これはもはや階級闘争ではなく、“自己内部に向けられた搾取”である。

 つまり、現代資本主義は、かつての物理的搾取から、象徴的搾取、精神的搾取、イデオロギー的搾取へと移行した。しかもそのすべてが、「自由」「民主」「自己実現」「開かれた社会」といった心地よい包装紙にくるまれている。こうして搾取は見えなくなり、闘争は起きなくなり、構造の自覚は奪われる。

 結局、搾取はなくなっていない。ただ、その姿を隠し、人々の同意と欲望と承認欲求に寄生する形で、より高度に持続可能なモデルへと変化したにすぎない。

● 中国は共産主義国家ではない

 マルクスが提起した「上部構造」は、もともと経済的土台(下部構造)によって規定される意識・制度・イデオロギーの領域であった。しかし、歴史的にこの上部構造という概念自体が、社会主義者によって利用され、政治的支配装置として再構築された。

 マルクスの理論が示したのは、本来、「意識は経済に従属する」という科学的分析であったはずだが、それが「経済の名による正義」「階級闘争の名による権力獲得」へと転化された時点で、上部構造それ自体が“虚構の操作装置”と化したのである。

 中国共産党によるマルクス主義の「社会主義の中国的特色」論は、その象徴である。そこでは、イデオロギーは明らかに経済発展の正当化装置としてのみ機能しており、思想の内在的整合性や哲学的深化は放棄されている。「共産主義」や「階級闘争」は、名目的スローガンとして温存されているにすぎず、実態としては、高度な国家資本主義体制=計画・統制された民間資本の統合管理が展開されている。

 中国はもはや共産主義国家ではない。共産主義という看板を掲げた国家資本主義国家である。

● 西側と中国の同質性

 この構造が示しているのは、上部構造とは、もはや“本質の表現”ではなく、“現実操作のための虚構”であるという事実である。しかもこの“虚構の技術”を最も巧妙に運用しているのは、いまや民主主義国家である。そこでは「自由」「人権」「民主」「選挙」「開かれた社会」などの言葉が、理念としてではなく、“パッケージ化された統治ツール”として機能している。

 これらは、国民に選択の自由があると錯覚させ、制度の正当性を感情的に内面化させるための承認誘導的イデオロギーにほかならない。皮肉なことに、中国の「共産主義」は看板倒れの国家資本主義であり、民主主義国家の「自由主義」もまた、商品化されたプロパガンダでしかない。

 両者の差は、もはや理念の内容ではなく、虚構をどのようにパッケージし、管理するかの技術の差にすぎない。そして、西側はこの構造を見ずに、中国に「共産主義」という過去の亡霊を貼り付け、叩いている。これは、「敵の虚構性を責めながら、自らの虚構性には無自覚でいる」高度な倒錯である。

 マルクスが構想した“階級と歴史の科学”は、もはや思想として生きていない。左派はそれを権力装置として消費し、右派はそれを敵イメージとして商品化してきた。こうして、イデオロギーは思想からマーケティングへと転落し、国家はその最大の消費者となった。

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