未必の故意で問われる韓国人船長の殺意、「情緒法治」の見苦しい一幕

 韓国セウォル号の沈没事故の「主犯格」である船長のイ・ジュンソク被告に対し、殺人罪で死刑を求刑された。大変驚いた。「情」という面では、まったく理解できる話である。乗客を放り出して自分だけ逃げたと。ただ、「法」というレベルで考えて死刑求刑は妥当であろうか。

 三つ考えないといけない。

 まず、罪刑法定主義のもとで、殺人罪を問われる以上構成要件の審査が極めて厳格なものであるべきだ。韓国刑法は勉強したことがなく、一般論的にやはり「殺意」の存在が一つ大変重要なカギとなる。船長の率先脱出が殺意の存在を裏付けるものとされるのが少々強引ではないか。

 「重過失致死」で断罪したら軽すぎ、では「未必の故意」を論じた場合はどうであろう。つまり意図的にあるいは確定的に犯罪を行おうとする意思がなくても、結果的に犯罪行為になってもかまわないと思って犯行に及ぶ状況である。事故発生当時、率先逃走が「結果的に犯罪行為になる」という認識が船長の頭にあったかどうかが争点になる。ただ自分が死にたくないという一念だけが強く持たれることは確かだろうが、「犯罪行為」への認識を明確に認定するのはそう簡単ではない。

 次に、たとえ「未必の故意」が認められた場合、それに死刑という量刑は果たして妥当かどうか。言ってみれば、連続殺人魔と同列の刑にしての妥当性が問われるのであろう。特に今日に至るまでの韓国の裁判史における死刑判例を調べる必要がある。細かく調べておらず、あくまでも自分には韓国は大量死刑国家ではないような印象がある。そうであれば、今回の死刑求刑は極めて異例と言わざるを得ない。

 そこまで厳罰するのであれば、行政当局の管理責任も連帯して加重し、刑事訴訟対象者範囲を大幅に拡大すべきであろう。引いていえば、朴大統領自身の引責辞任も妥当であろう。そうでなければ、ダブルスタンダードが見え見えではないか。

 最後に重要な一点。朴槿恵大統領は船長らの行動に対し、「殺人行為に等しい」と非難した事を思い出す。大統領のこの一言が司法への介入になっていないのだろうか。産経前ソウル支局長の大統領名誉棄損事件の起訴を見て、韓国検察当局が大統領の心象や意思を忖度する姿勢が浮かび上がってくる。そうした印象を受けているのは私だけだろうか。

 国民の怒りを特定の対象に集中させ、厳罰をもって事態を収拾に向かわせ、ひいてはぐらつく統治基盤を懸命に維持しようとする朴大統領の姿勢はあまりにも見苦しい。最大な問題だが、「法の支配」や「法治」が濫用され、今日の韓国は一種の「情緒法治国家」に成り下がった。