「中国人に騙された」
こういう日本人や日本企業が特に珍しくもなく、お馴染みのストーリーは枚挙にいとまがない。巧妙な手口によって被害に遭遇していたら大変同情に値するし、少しでも力になれればと奮起するだろうが、残念ながら加害者の手口が高度なものでも何でもなく、被害者のあまりにもずさんなリスク管理や自己防衛に起因するものであることが判明した時点で、同情心も助ける気も一気に失う。
私は基本的にB2B、法人向けのコンサルティングに徹しているが、私的付き合い上で対個人の助言や支援など、友情出演か準友情出演的な場面がまったくないわけではない。ただどこまで協力するかは案件の中身による。
ブログでも一度書いたことがあるが、「法・理・情」のこと――。
まずは、「理」、つまり「合理性」が掲げられ、それに飛びつく。日本人や日本企業の失敗ストーリーは大体ここから始まる。中国人や中国企業と一緒にやったほうが便利で合理的だということだけで飛びつく。しかも「日本語が上手だ」というような、ばかばかしい判断基準でゴーサインを出す愚か者も多く見受けられる。
次に来るのが、「情」。真面目な人だし、しっかりした企業で、いろんなこと親切にしてくれるし、場合によっては盛大な宴会まで催してくれる。ここまでくると、すっかり「情」の世界に突入する。悪の抑制措置皆無の「信用する」という愚行が美徳の如く語られ、そういうときに少しでも自己防衛を呼びかけるような第三者がいれば、まるで友好関係の宿敵までいかなくとも出しゃばりの邪魔者のように扱われるものだ。
最後に、「法」。とうとう破局を迎え、いわゆる「騙された」被害者に転落したときに、法律に助けを求めてくるのである。なんとか訴訟できないかと言ってもろくな契約もなければ、しっかりした証拠保全もなされていない(「情」のもとではこのようなものは必要なかったのだった)。これじゃどうしようもないよ。ご愁傷様です。
最後の最後、「中国人は人騙し、大嫌い」とくる。あらら、また「情」の世界に逆戻りするじゃないか。
ほぼすべての失敗物語はこのような道をたどっているのである。要するに、「法・理・情」の順序の取り違えである。このような「被害者」は、「被害者」といえるのだろうか。本質的にはただの「自害者」である。さらに、「日本人はカモ」という看板作りの協力者として、広義的に一種の間接的な「加害者」にもなっている。