お涙頂戴で似非自己確立、人生モデルの量販ビジネス

 何とか有名人の闘病に学ぶものは、私にとってたった1つしかない。それは、「諸行無常」。闘病とか、結果的に病の受け入れ方であって、人それぞれ各自の自己を確立すれば良い。壮絶物語を作る必要はない。自分はそう思う。

 病が悪であれば、闘病が善となる。闘病が善だったら、不闘病はまた悪とならないか。では、病から逃げて自ら命を絶つものはどうであろう。悪なのか、弱なのか。世の中何でも善悪の二元論を当てはめると、いささか疲弊化しないだろうか。

 「私は誰?」という問い。学校ではほとんど教えられない。日本社会というのは、基本的に「世間にどう見られるか」という「見られ方」と、「どうあるべきか」という「べき論」の下で、真の自己との対話をもたないまま、一生を過ごす人が大多数ではないだろうか。

 「自分を見失う」とか「自分を取り戻す」とか、それ以前の問題で、自己を確立したことはあったのか。自己確立できていない人たちは、他人モデルのなかから自分を見つけ出そうとし、その「似非自己」を自己定義し、共感を生み出す。

 自己確立のできていない大衆は、マスメディアの主たる顧客層となる。そこで似非自己確立のモデル、ときにはお涙頂戴のクライマックスを提供し、総括的な感想まとめで締めくくらせる。

 まあ、言ってみれば、人生モデルの量販ビジネスだ。マーケットがあって、需要は結構大きいのだ。