文学と哲学、文学に親和性を持てない理由とは?

 先日、詩人金子光晴の足跡を辿る旅をしたけれど、やはり文学の目線を持てず終いだった。同じ人文系の哲学には深い興味を持ちながらも、文学に近づこうとする感覚は私にはまったくなかった。

 文学「個別性」「情」を求める学問であるのに対して、哲学「普遍性」「理」を求める学問である。文学の専門家と議論していると、なかなか噛み合わない。その理由はおそらくここにあると思われる。

 文学と哲学には共通するものもある。それは言葉である。言葉は、世界観の破壊と再構築に役割を引き受けている。実務面では、文学を用いて哲学を表現することができても、逆のパターンで哲学を用いて文学を表現することは非常に難しいように思える。文学そのものが表現であるからだ。

 ただ文学でなく、文学家のことを哲学的に捉えることは可能だ。たとえば、多くの反戦作品を帰納的に処理し「反戦文学」の普遍性を抽出することは難しいが、「反戦詩人金子光晴」という個体を哲学の枠組みにはめ込み、演繹的に捉えることが可能である。

 「反戦とは何か」「すべての戦争が悪か」「金子がなぜ反戦するのか」……。一連の問いを提起したところ、文学的な情緒が台無しにされ、文学家に睨み付けられるのがオチであろう。

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