貧富の格差は必然悪だ

 2日間のセミナーは終了した。今回は、労働組合の話題で、いつもの法律ものに比べて若干軽めだが、予想以上の反応があった。

 「うちの会社にも、上層部労働組合のおばさんが頻繁に(組合結成の)勧誘にやってくる」、このような参加者も数社いた。

35683_2労働組合セミナー(4月8日、上海ガーデンホテル)

 今年は、「労働組合元年」になると私は予測する。労働組合は、賃金団体交渉の主役になる。全体的に、中国の労働現場はこれから賃上げの一色になるだろう。

 90年代の中国は、「効率」が最重要だった。経済成長を目指すうえ、効率をなくしては達成できない。いよいよ豊かになってくると、今度は「公平」が全面的に持ち出される。貧しい時代がよかったのに、お金がたまってくるといろいろなもめごとが多発するようになる。

 そこで、「公平」とは何かを問いかけたい。「結果の公平」か「機会の公平」?日本人も中国人も、アジア人はどうも「結果の公平」を求める傾向がある。「結果の公平」は大きな落とし穴で、計画経済時代への逆戻りだ。そもそも、「結果の公平」などは存在しえない。

 「貧富の格差」そのものは、「悪」ではない。どうしても「悪」と位置づけるのなら、それは、必然悪だ。問題は、「貧富の格差」ではなく、格差が生まれる過程に、公平な機会が全員に与えられているかどうかであって、公正なルールが設けられているかどうかである。

35683_3労働組合セミナー(4月8日、上海ガーデンホテル)

 そして、公平な機会のもとで生まれた結果的な格差に対し、まず、国は救済しなければならない。社会安全網を整備しなければならない。すべての義務と責任を、民間企業に押し付け、労使関係を悪化させるのが正常とはいえないだろう。

 「資本家が労働者を搾取している」という扇情的なキャッチコピーは、絶大な宣伝効果と破壊作用を持ち合わせている。美麗字句は毒を帯びている。