運転手を雇った理由、還暦を超えて考える「時間」と「集中力」の配分

 同じ車でも、後部座席の乗り心地は違う。かつてはハンドルを握ることが当たり前だった私も、今は運転席ではなく、後部座席に座ることが多くなった。座り心地の違いは、単なる物理的な感覚ではなく、時間と意識の使い方が変化したことの象徴でもある。

 実は私には、かつて運転手がいた時代がある。上海にいた頃のことだ。運転手付きの生活はあまりにも自然で、もはやそれが「労働の一部」ではなく、「仕事の前提」になっていた。

 その後、マレーシアに拠点を移し、「今度こそは悠々自適の生活を」と思っていた。南国の陽光、広い家、時間の余白――すべては整っていた。しかし数年が経ち、気がつけば再び、仕事に没頭する日々が始まっていた。どうやら私は「仕事なしでは生きられない人間」であるらしい。こうして再び、多忙の時代に突入したわけである。

 そして今、再び運転手を雇った。理由はいくつかあるが、最も象徴的な契機は、私自身が還暦を迎えたことである。

 60歳という年齢は、決して「老い」の始まりではなく、「時間の使い方」を再定義すべき節目である。若い頃は、自分で運転して、渋滞に巻き込まれても、駐車場を探して何十分かけても、それほどの負担とは感じなかった。しかし、還暦を過ぎると、1分1秒が惜しいと感じる場面が確実に増えてくる。

 運転手を雇うことによって、単にハンドルを手放すだけでなく、「時間の主導権」を取り戻すことができる。たとえば、目的地までの道中で、電話の整理、メールの下書き、あるいは短い思考メモの整理など、運転中にはできなかった集中と準備が可能になる。これは私のように知的労働を主軸とする者にとって、極めて大きなメリットである。

 また、都市部においては「目的地に到着した後、駐車場を探す」という行為が意外に時間を食う。打ち合わせの直前に焦って空きスペースを探し、ようやく駐車できても数百メートル歩くとなれば、時間と体力のロスは無視できない。運転手がいれば、降車と同時に移動が開始できる。この小さな差が、大きな効率の差となって蓄積する。

 もちろん、コストはかかる。しかし、時間・集中力・精神的余裕――それらを貨幣で買うことができるという点において、運転手の存在は、私にとってきわめて合理的な投資対象である。

 還暦を超えてから、私はあえて「無理をしない」「雑務を手放す」という選択を少しずつ始めている。運転手の採用も、その一環にすぎない。体力と集中力が有限であることを認め、その配分を最適化する。この姿勢こそが、私の人生後半戦の戦略である。