<雑論>AI時代の日本は「苦あって痛なし」の国になる / 殴られて「痛くねぇよ」と言う芸 / 「反日」という死語 / 「強者の仮面」と「弱者の正体」 / なぜビジネス誌は購読に値しないか

● AI時代の日本は「苦あって痛なし」の国になる

 米マッキンゼーの予測によれば、2030年までに世界で最大8億人がAIによって仕事を失う可能性があるという。世界の労働人口は約35億人だから、実に2割超が職務消失に直面する計算だ。単純に日本へ当てはめれば、労働人口約6500万人のうち、その2割強──およそ1400万人が影響を受ける。

 しかし、問題はここからだ。日本の場合、事務・サービスなどホワイトカラー比率が極端に高く、標準化業務への依存度も大きい。加えて、生産年齢人口が急速に縮む中で、省人化インセンティブは他国以上に強烈である。つまり、日本は世界平均よりもAI代替が進む国であり、補正すれば約1700万~2000万人規模が「仕事の中身を失う」ゾーンに入る。

 だが、ここで日本特有の構造が牙をむく。本来、この種の職務消失は「雇用の消失」とセットで起きる。中国や米国では、職務が消えれば人員は再配置され、失業も一定程度発生し、結果として労働市場の再編が進む。能力のある者はAI産業へ流れ、付加価値の高いセクターへ集約され、国全体として生産性が跳ね上がる。痛みを受けた労働者は行動を変え、生産性の高い領域へ移動する。国家レベルで淘汰と再配置が同時に起きるわけだ。

 ところが日本は違う。日本企業は労働者を滅多に解雇しない。AIが仕事を奪っても、雇用契約は温存され、ポストだけが空洞化する。中身がゼロでも座席だけ残し、給与も出す。職務は消えたが雇用は消えない。この瞬間、生産性は必ず下がる。価値創出(分子)がゼロになる一方、人件費(分母)は温存されるからだ。労働者には仕事の「苦」はある。しかし「痛み」がない。痛まないから、行動を変えるインセンティブもない。スキルも磨かれず、生産性も上がらず、賃金は停滞し続ける。

 痛みとは、本来システムを自己修正させるシグナルである。痛むからこそ人は動き、淘汰が働き、社会は進化する。ところが日本は、痛みそのものを遮断してしまった。労働者は「なんとかなる」と思い込み、企業は改善圧力を失い、国家全体が緩やかに死んでいく。AIがもたらすのは技術革命ではなく、「無痛症国家」という日本特有の退化モデルだ。

 職務消失 → 雇用維持 → 生産性低下 → 賃金停滞 → 投資力の喪失 → さらなるAI遅延。――この悪循環は一度回り始めると止まらない。しかも、AIは「累積優位」の技術だ。導入の早い国はデータが蓄積し、精度が上がり、再設計が進み、さらにデータが増える。後発国は差を永久に埋められない。日本はこのループの外側に置かれつつある。

 解決策は明白だ。職務ベースで人事制度を再設計し、成果・付加価値ベースの分配を強化し、過剰雇用を温存しない。3階建®/Three-Tier™制度が強調する「職務・任期・成果」の三層構造は、まさに「痛みの適切な返却」という、進化に不可欠なメカニズムを組織に戻すための装置である。

 日本が生き残るかどうかは、痛みを避け続ける「保護の幻想」から脱するかどうかにかかっている。苦だけ積み重ね、痛みを遮断し続けた国に未来はない。経済の法則は残酷だが、嘘はつかない。

● 殴られて「痛くねぇよ」と言う芸

 中国の「航空券キャンセル54万件」について、一部メディアが「日本経済への打撃は限定的」「GDPへの影響は2兆円程度」と語っている。確かに統計表の上ではその通りだ。日本経済は巨大であり、54万件のキャンセル程度で景気後退するほどの貧弱体ではない。この手の議論は、殴られた瞬間に「痛くねぇよ」というものだ。「痛くねぇよ」にそもそも理由は要らない。問いだけだ。

 殴りは本当にここで止まるのか?
 次の一撃を受けても痛くない保証はあるのか?
 別の要所を殴られたら致命傷にならないのか?
 そもそも、日本に殴り返す勇気と力はあるのか?
 そして、その殴り合いの「最終結果」を引き受ける覚悟とキャパシティを持っているのか。

 そこが全く語られない。

 今のところ、殴られたのは「日本経済という抽象体」ではない。航空会社、ホテル、地方観光、通訳ガイド、小売店といった「具体的な誰か」だ。GDPの数字は平然としていても、現場は普通に痛い。だが、マクロ議論に切り替えた瞬間、個別の被害は蒸発し、数字の世界では痛み自体が消えてしまう。

 そして何より、この先に来るかもしれない「殴りの続き」には一切触れない。それで国民が「今回の殴りは痛くなかった」などと安心してしまうなら、むしろその自信のほうが馬鹿げている。だからこそ、この種の「痛くないアピール」は、経済分析というより、単なる精神勝利宣言に過ぎない。国が強がるのは勝手だが、数字の裏で倒れている業者を見ずに議論するのは、ただただ滑稽だ。

● 「反日」という死語

 少し前、中国のある識者と「反日」について議論したとき、彼はあっさりこう言った――。反日はもう時代遅れの死語だ。日本人の自惚れだよ。日本は今や「反」する価値のある相手ではない。放っておけば国内で勝手に分断して、自滅する。だから、わざわざコストをかけて反日をやる必要がない。

 言われてみれば、今回の高市危機の反応は、その言葉の正しさを証明している。中国側に反日デモはない。外交的な激烈な制裁もない。観光客は「渡航中止の呼びかけ」に留まり、一応警告として最低限のカードを切っただけ。騒いでいたのはむしろ日本のほうだ。「毅然」「断固」「屈しない」など、威勢のいい言葉で自ら存在感を下げている。相手が殴ってすらいないのに、ひとりで叫んでいる構図である。

 中国側は冷静だ。日本の方が騒音を上げて空回りしている。自分で自分を格下げしているのだから、相手がわざわざ「反日運動」などする価値はない、という彼の指摘は、残酷だが正しい。要するに、日本の偽右が吠えれば吠えるほど、日本の品格は毀損される。そしてその騒ぎっぷりこそが、中国側の「反日不要論」の証拠になっている。

 少しは品格を持とうよ、と言いたくなる。

 相手が静かにしているのに、こちらが一方的に喚き散らす姿ほど、国際政治でみっともないものはない。さらに日本の首相は、国際会議の場で「マウントを取る」と豪語するくらい、日本は品格を失いつつある。

● 「強者の仮面」と「弱者の正体」

 SNSで某読者の書き込み「いまの日本は“強さ”を求めるあまり、本来の静かな知性を捨て、感情に支配された国になりつつある」。私はこう回答した――。

 「“強さ”を求める」のではなく、「“強さの仮面”を求める」である。いまの日本は“強さ”を追求しているのではない。“強そうに見える自分”を演じる快感に支配されている。

 強さを実際に備えようとすれば、現実と向き合い、弱点を補強し、コストを払い、痛みを受け入れる必要がある。しかし日本社会が求めているのはそうした実質ではなく、「強く見える語彙」「強く見える姿勢」「強く見える政治家」といった、パフォーマンスとしての強さだ。つまり欲しているのは強さそのものではなく“強さの仮面”であり、その仮面が外れないように国全体で祈っている状態に近い。

 結果として、国の劣化を直視する知性は衰え、現実よりも演出を優先する劇場国家になりつつある。強い国は劇をしない。劇が必要なのは弱い国であり、いまの日本はその典型例だ。

 また別の読者は、(日中外交の文脈で)「日本人は世界の中でも優れた人種で、愛情豊かで慈悲深い。それに賢い」と私のSNSに書き込んだ。私は次のように答えた――。

 「日本人は愛情豊かで慈悲深く、それに賢い」を、国際政治次元の「世界語」に訳してみるとこうなる――。国際政治において、「愛」や「慈悲」とは、「力」「余裕」があっての高次道徳である。さらに、「賢さ」よりも「ズル賢さ」ないし「老獪さ」が求められる。

 弱者の自己美化ほど醜いものはない。力を持たない者が自分を称賛すれば、それは美徳ではなく虚飾に変わる。とくに国際政治では、弱者が自国の道徳や善良さを語れば語るほど、相手国には「力の欠如」と「現実逃避」のシグナルとして伝わる。

● なぜビジネス誌は購読に値しないか

 つい最近、私のところに「取材依頼」が届いた。歴史ある経済誌を名乗り、オンラインで30分ほど語ってくれと言う。だがメールの文面を読んだ瞬間、私は悟った。「ああ、この媒体はもうダメだ」と。

 内容は、経営者の承認欲求をくすぐるだけの、タイアップ広告寸前のヨイショ営業。ロングインタビュー?哲学を語ってほしい?未来に残す記録?笑わせるなと言いたい。要するに「あなたを褒めます、だから載りませんか」という商売である。無料だろうが有料だろうが、こういう「自分史代行ビジネス」に時間を割くほど暇ではない。私は即座に断り、個人情報削除も要求した。

 そもそも、最近の経営者インタビューを読んで価値を感じることがほとんどない。なぜか。経営者の成功物語など、後づけの文脈でいくらでも美化できるからだ。過去の意思決定に哲学があったかどうかではなく、今の自分を正当化するために物語が作られる。編集部はそれを「感動ストーリー」として仕上げる。読む側は、事実ではなく「演出された自己正当化」を買わされているだけだ。

 こうした記事は、経営学でも歴史学でも使えない。因果関係を語るふりをして、すべてが結果論。失敗は言い訳に変換され、成功は神話化される。経営者の語る「戦略」は、ほとんどが後出しジャンケンである。なのに媒体は「深い洞察」と持ち上げる。この構造自体が、もう茶番だ。

 問題は、こうした「承認欲求向けインタビュー」が、堂々とビジネス誌の編集記事として並んでいることだ。本来、経済誌の役割は分析と批評であるべきだ。しかし現実は、自己顕示欲の代筆と記念撮影のスタジオになっている。優良記事よりも、有料記事。質よりも課金。媒体としての矜持はどこへ行ったのか。

 一度この構造に気づいてしまえば、購読代を払うのが馬鹿馬鹿しくなる。読者は「知見」を求めて金を払っているのに、返ってくるのは「自己満足コンテンツ」でしかない。ビジネス誌側に言わせれば「歴史に残る記録」。読者から見れば「承認欲求のお焚き上げ」。このギャップが、媒体の寿命を決める。

 だから私は購読しない。理由は単純だ。読む価値のある記事がほとんどないからだ。そして、こうした「美談商法」と「承認仲介ビジネス」が編集部に入り込む限り、ビジネス誌はますます退屈で、ますます薄っぺらくなっていくだろう。

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