やらない善よりやる偽善、叩かれる偽善と見えない真善

 昨日、フェイスブックで「偽善」が話題になった。偽善は往々にして批判される対象だが、果たしてそうなのか。

 たとえば、Aさんが黙って100万円をアフリカの子供に寄付した。Bさんは派手な宣伝をしながらこれも同じくアフリカの子供に100万円を寄付した。そこでBさんのことを「偽善」と批判する声が上がる。「しょせん名声のためだろう」。これを聞きつけたBさんは寄付をやめる。

 アフリカの貧困な子供たちにとってみれば、Aさんの寄付もBさんの寄付も同じである。Bさんが「偽善」との批判を受け寄付をやめたとすれば、アフリカの子供たちはBさんよりも批判者たち(世論)のことを憎むことになる。

 さらにBさんの公開寄付を見て、CさんやDさんもつられて寄付に乗り出したとしよう。それはそれはBさんはアフリカの子供たちにとって大恩人でもっともっと感謝されるのであろう。逆に黙って寄付したAさんのこと、誰も知らないからこのような誘発効果も当然ないわけだ。

 社会福祉や善の総量増進という観点から、Bさんの寄付行為がたとえ「偽善」であっても、それは「善き偽善」になる。「やらない善よりやる偽善」という言葉がある。口先だけで唱える「空善」よりも、実体を伴う「実偽善」のほうがよいということだ。

 「黙って寄付する」とか「黙ってボランティアする」とか、それは倫理学的にも美学的にも最上級の品質を誇る善(真善)であろう。全社会の構成員がこのような「真善」をもつのが「最善」である。しかし、この種の理想的な「最善」はありえない。だとすれば、現実主義的な「次善」を取るほうが合理的であろう。

 もちろん、「善き偽善」がある以上「悪しき偽善」もある。それはまた別の機会(次回)に論じよう。

<次回>

コメント: やらない善よりやる偽善、叩かれる偽善と見えない真善

  1. うーん。そうですね。やっかみのもとは庶民からだけでなく、富裕層からもあるのかもしれませんね。

    「自分だけ良い格好しやがって」みたいなのがあるのだろうと思います。

    現代社会では、富を得るということは、社会全体の発展に寄与するというよりも、限られたパイをどれだけ奪うかであることがすでに明らかになっている以上、庶民からすれば富裕層=悪者です。

    少数派の富裕層からすれば、同じ階層の者による、そうした慈善は裏切り行為のように映るのでしょう。「99%と言っても、残っているのが550億では、俺よりも多いじゃないか。略奪の絶対数が多い者がなぜ称賛されるのだ」と考える富裕層も多いのではないでしょうか。

    1.  もちろん富裕層からの嫉妬もあるでしょうが、世論としてのアプローチは基本的に庶民目線をベースにしているから、おっしゃる「富裕層=悪者」と言う一般論的構図が大変危険です。

  2. さすが立花先生。結果を褒めて、偽善者をどんどん励まそうということですね。

    そういう偽善者がたくさん増えて、世の中いっぱいになれば、貧しき者たちもたくさん救われる。そう考えなのですね。感心致しました。

    ご持論がもっと広まると良いですね。

    1.  「ザッカーバーグの寄付は偽善なのか」(2015年12月9日付「日経ビジネス」 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/246942/120800012/?rt=nocnt

       こういう問題提起自体が問題ですね。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOが、時価450億ドルの自社保有株の99%を慈善事業に寄付すると発表したことへの世間の反応・・・。日経ビジネスはまあ、いろんな声が上がっていることを報じているだけですが、少なくとも見出しをもうちょっと考えてほしい。

       金持ちの寄付は、真の善意、自己満足、税金対策、売名行為・・・などと多岐にわたる目的があるのかもしれません。それを究明する意味はあるのか。

       偽善でもいいから、世界はこのような偽善をも必要としているわけだから、結果にフォーカスしてほしい。

  3. そうですね。偽善は偽善として、その価値を認めてあげるというのは良い考えですね。

    そうすれば、貧しき者も救われ、偽善者も満足するに違いありません。

    問題は、「偽善」はどこまでやっても、「偽善」であり、「真善」として扱われないことでしょうね。いくら褒めたたえられ、「良き偽善」と呼ばれても、喜ぶ「偽善者」はいないでしょう。「偽善者」は「真善者」と呼ばれて、初めて嬉しいのでしょうからね。

    しかし、「偽善」を「真善」と呼んでしまっては嘘になるから、それはできないでしょう。だから、いっそのこと「二等善者」とか「次善者という呼び方にするのがい良いもしれません。

    真善には位はつけられないけれども、「二等善」や「次善」には寄付した金額によって位をつけられるようにするというのも良いかもしれません。100万二等善者とか、1000万次善者というのを設けて表彰するようにすれば、偽善者の心も満たされ、貧しき者も救われることになりますね。

    世界の救われない偽善者のために、立花先生の主張がもっと世に伝わると良いと思います。それが貧しき者の救いにもなるはずですね。

    1.  行動の動機と結果を切り離して考えれば分かりやすい。動機が「偽善」であっても、結果が「真善」であればそれでいい。行動の動機よりも、結果を褒めれば良いと思います。

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