読書による精神的弾力性の喪失、呼吸のように思索せよ

 蔵書数千冊だとか、年に数百冊の書物を読破するとか、読書家は知的感満点で絶対善とされるのが一般的だが、この常識を喝破するのは哲学者のショーペンハウアーであった。

 「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく」

 私自身もかつて多量の読書で自慢していたことがあった。とても恥ずかしい。読書は決して量で自慢するものではない。所詮他人から知識をいただくものに過ぎないからである。考え抜いた知識から文脈を作り、そこから真理を見出すことこそが価値の源である。

 思索である。

 しかし、読書ができても、思索ができるとは限らない。「思索を呼吸のように自然に行うことができるほど天分に恵まされた頭脳」と、ショーペンハウアーはこう形容し、「思索向きの頭脳と読書向きの頭脳との間に大きな開きがある」と指摘する。

 「多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る」。耳が痛い。本当に耳が痛い。「学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである」

 世界という書物を読破するには、自分がしっかりした思想を持つ以外方法は皆無だ。「我々が真の意味で十分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない」

 われわれ現代人は多忙な仕事や日常生活から時間を捻出して読書する。さらにその読書の時間から思索の時間を捻出しなければならない。思索とは何か。その原点は懐疑に基づく問いかけにほかならない。

<次回>