議論のルール、価値観と美学に基づく「棲み分け」

 読書のこと、いろいろ書いたが、議論のことにも少し触れてみたい。

 私は一方的に議論を打ち切ることがある。先日、「価値観が共有できない人と議論をしない」ということで、私に問い詰める方がおられた。私は、「議論の価値観が共有できない人と議論をしない」と、前置きの定義を付け加えて答えた。

 「議論の価値観」とは、その議論に価値を感じるかどうかの判断基準である。人生の総時間数は限られている。非健全・非建設的な議論に時間をかけるというのは、人生の無駄であって価値を置くべきではない。

 契約に基づくコンサルの現場においてもたまに議論が脇道にそれることがある。その場合は、論点の軌道に戻るよう修正作業に取りかからなければならない。そもそも事前のアジェンダ設定に問題があったのではないかとあとから反省し、改善に取り組む。

 ブログやフェイスブックとなると、まず契約上の権利義務がまったくない。それ故に、一方的価値観の判断基準で議論の是非を検討する。議論に値しない非健全・非建設的な議論は打ち切る。

 では、「非健全・非建設的な議論」とは何かというと、列挙したらきりがない。少々乱暴だが、一言でいうと、「議論のルールに当事者が合意できないとき」である。ブログの場合、まず片方の匿名性も問題だが、それはさておき、よくあるパターンは「論点のすり替え」だ。

 論破されそうになったとき、論点のすり替えをすることは詭弁の主たる手法とは言われるが、私は必ずしもそうとは思わない。相手に断ったうえで、建設的な論点のすり替えがあってもいいと考える。ただ、必要な手続がある・・・。

 と、いろいろ議論のルールがある。このようなルールは私が自分の議論の価値観に基づいて設定したものである以上、納得しない方もおられるだろう。その方はまたその方の価値観に照らし、立花のブログやフェイスブックを見る価値がないと判断した場合、ブログを見なければ良いし、またフェイスブックの友達解除をしてもよろしい。

 このような健全な「棲み分け」の理念もまた、私の価値観の一部であって、美学でもある。

コメント: 議論のルール、価値観と美学に基づく「棲み分け」

  1. ご意見に賛同します。
    意見、思想、価値観には様々あるもの。相互理解が可能な場合もあれば、不可能な場合もある。理解出来なくとも、そのままで、互いに存在を尊重しあうことが大事に思えます。

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