タイ(7)~ドンムアン空港の「ガッチャン」連想

<前回>

 1月1日(月)、元日。バンコクからエア・アジアAK885便で帰馬する。ドンムアン国際空港で出発ラウンジを利用する際に、あることに気付いた――。

 未だにカーボン複写式の、いわゆる「ガッチャン式」の伝票機械を使っているのだ。そのうえ、客一人ひとりの氏名や搭乗便名、利用詳細を丁寧に手書きで記帳しているだけに、処理は長い時間がかかってひたすら列に並び待たされる羽目になる。

 技術の発展で省力化が図られる昨今、このような前近代的な手法で事務処理をするシーンはもはや珍しい。あえて文句を言わずに観察に徹してみた。受付のタイ人女性は長蛇の列を前に何も焦る気配もなく、丁寧かつ悠長に処理を続けている。

 改善、効率、発展といった概念はこの国ではそれほど価値を置かれているのだろうか。そもそも、これらの概念を一方的に「善」とする人間のほうがおかしい、とそういう相対的な捉え方もあろう。

 最近、東南アジアに住み、東南アジアを回っている自分は、いろんな意味で気付かされることが多い。その多くは自分のなかに持ち続けてきた価値判断や常識に反しているし、瞬時に本能的な拒絶反応を惹起するものもあったりした。

 マレーシアも例示に値する国だ。国家発展構想において2020年までに先進国入りすることを目指している。先日、あるセミナーでこのことを聞かれたところ、私は思わず「それは無理だろう」と、やや乱暴な回答をしてしまった。マレーシア国民のどのくらいが、いわゆるこのような発展構想を心底から望んでいるかという疑問が常につきまとっているからだ。

 いや、日本だってそうだ。戦後の苦しい困窮期に比べて、先進国入りし繁栄の黄金期を体験してきた日本人は今、より幸せになったのだろうか。

 世の中、善と悪という明確な二極が瞬時分別できるわけではない。人間は常にグラデーションの世界に生きている。発展との親和性を考え直す時期がやってきたのかもしれない。

<終わり>