私はこうして会社を辞めました(53)―自嘲に耽る孤独な鳥

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(敬称略)

 東京帰任後の4か月目、月額20万円の「見なしコミッション」の支払いが、止められた。当初提示された年収900万円は、空中楼閣となった。コミッションがなくなると、実質的年収は、600万円強しかない。香港時代の1700万円に比べ、香港と東京の生活水準の格差を加味すると、私の年収は3分の1以下に激減したことになる。

 お金はすべてではない。理屈は分かっていても、自分が一介の凡人である以上、モチベーションの低下は避けられないし、またそれを自覚できるようになった。

24066_2東京の生活は厳しい

 年収900万円を前提に東京での暮らしを計画していたが、すべて狂った。通勤時間を短くするために、事務所のある神谷町に近い麻布十番にマンションを借りた。年収600万円なら完全に無理だ。麻布十番辺りの物価も高い。香港なら、生活を贅沢にしようが質素にしようが選択可能だが、東京では無理だ。妻も専業主婦をやめてパートで働かざるを得ないだろう。

 そもそも、コミッションを当てにしてそれを収入総額に折り込んだのが、私のミスだった。生活コスト全般の上昇は予想以上だった。そればかりでなく、住宅スペースも、上海時代の160平米から香港時代の90平米、そして東京の40平米に半減のまた半減になった。駐在員時代に購入した家財道具は、海外の大きいサイズで東京のウサギ小屋に搬入できないものもあれば、総量的に収容できないものもある。捨てに捨てきれないものは、物流会社の倉庫を借り、保管料を払ってまで馬鹿だった。

 東京のマンションは、海外と比べると格段に狭い。身体の大きい私は、慣れないうちに何回も何回も家の中であちこちぶつかり、身体中に傷だらけだった。

 生活費を切り詰めるため、外食はほとんどしなくなった。旅行やバカンスは夢のまた夢。この記事に使おうと写真を探したが、東京帰任後の半年の東京生活には一枚の写真もなかった。

 生活面の不自由は何とかクリアできても、仕事面の困惑は自分の力で解消できない。あの半年の東京暮らしは、人生の中でも酷く痛んだ時期だった。

 転勤、生活・仕事の環境の変化は、サラリーマン本人とその家族に与える影響は大きい。自分は身をもって分かった。会社の都合とはいえ、一社員個人の身に起きる大きな変化によってもたらされる影響は、いずれ仕事にも及ぶ。転勤など大きな環境の変化を伴う社員へのメンタルケアはいかに大切なのだろう。

 私には、相談できる人はいなかった。会社での人間関係がうまく行っていないことは、妻も知っているが、それ以上心配をかけることはできないので、一人で考え込むしかなかった。

24066_4孤独な鳥

 顧客のアポを待っている時間は、大抵どこかの喫茶店に入ってぼーっとする。自分の名刺を眺めていると、英文の「Manager」が目に付く。私が何をマネージしているのだろう。むしろ、マネージされていて、いかによくマネージされるために努力するかを考える立場ではないか。そして、自分が自分のつまらぬ自嘲で一人笑いし、少しでもストレスの発散で、ほっとする。

 上海時代と香港時代が懐かしい。あのときの仲間たち、みんな元気かな…。

<次回>