私が土下座して謝罪する代価、メンツを捨てた「生の喜び」

 水野さんから記事へのコメントをいただいた。一部紹介する。

 「如何に生き、如何に死ぬか。だんだんそんな事を感じる歳になりました。水野は、ここ数年が本当に大変だったので、死の恐怖が薄れ、生きる事の恐怖が強くなってきた気もします。ただ、人の何倍もやりたい事をやり、満足のいく人生を送っているのもまた確か。如何に生きるかと如何に死ぬかは隣り合わせ。死に直面した時に、自分にも人にも胸を張れて、やりたい事をやりつくした人生だったと言える様になりたいですね。そして、死の直前まで意地を張って「生きて」いきたいと思います」

28432_2海をぼ~っと眺めて考える時間(04年冬、ハワイ島にて)

 素晴らしいコメントに喝采したい。「死の恐怖よりも、生きる恐怖」を人間が感じるようになったら、もう恐れるべきものはない、という側面はある。私も実感したことは一回二回だけではない。すると、やれることは、すべてやってしまおうという勇気が沸く。人間は、その壮絶感を一度味わってしまうと、 恐怖抗体が体内に植え付けられる。

 死の恐怖が薄れると、失敗の恐怖も問題にならなくなる。私のずけずけものを言う性格も、失敗の恐怖から脱出した結果の一つといえる。

 ものを言わなければ失敗しない。ずけずけものを言っていると、いずれ、間違ったことをいう、失敗の確率が高まる。間違ったことを言ったら、私は、謝るし、是正する。

 数年前、私がある方に酷い間違ったことを言ってしまった。すると、私が、会社の部下・従業員の前で、その方に土下座をした。土下座をして、謝ったのだった。中国人従業員は、全員気を失うほど動転した。中国では、社長が他人に土下座して謝ることは考えられなかったのだろう。しかも、人前で・・・

 二人きりのところで土下座せずに、人前で土下座するのは、私が本当に自分のミスを反省し、謝罪したい気持ちを相手に汲み取ってほしかったからだ。従業員がミスしたら頭を下げればよいが、社長としてはすべての責任を取らなければならないので、土下座しかないのだ。

 謝ることは、メンツが損なわれることになる。メンツが損なわれると、気分は実に悪い。何回も何回もメンツが損なわれると、間違ったことを言う、間違った行動を取る確率は、見る見る低下していく。人間には、学習の本能がついているのだ。

 「失敗の恐怖」を乗り越えられても、「死の恐怖」を乗り越えることはやはり難しい。ただ、二点ほど言いたいことがある。

 まず、死ぬ気で頑張ると、大抵のことは成しえることである。「人間は、そんなに、簡単にくたばるもんじゃない」、というのが私のいつもの口癖。

 そして、死は、誰もが恐れるが、死から逃れることはできない。だからこそ、生の意義を考え、「悔いのない生」をひたすら求めるのだ。私にとってみれば、「メンツ」は「生」の重荷になっている。だから、この重荷を思い切って捨てたのだった。その代りに、「生の幸福」を手に入れた。

 以前、読者から、「立花さんは、ストレスがなさそうですね」とのコメントをもらった覚えがある。その通り、私は、あまりストレスがない。しかし、ちゃんと代価を払っている――メンツを捨てた。損得の関係とバランス、世の中はやはり公平に出来ている。