立花は中国から「お金もらってる」のか?

 ここ2年、私の発言や原稿を「中国寄り」や「転向」「変節」とし、私のことを「中国からお金をもっている」という人がいる。1人や2人だけではない。口に出して言わなくともそう考えている人はもっと多いだろう。

 特定の当事者を「良し」とする言論の裏には、必ず金銭的授受がある、という法則を、その人たちは持っているようだ。それが正しければ、私は「転向」「変節」するまでは、反対の西側からお金をもらっていたことになるだろう。言われてみれば、原稿料は確かにもらっていたのだった。

 しかし問題は、書きたいことを書いたら、編集局から却下されたり、修正要請があったりすることがたびたびあって、不自由な思いをさせられたことだった。物書きとは「東西」を問わず、やはりある程度制限を受けざるを得ない。それはあってしかるべきだ。

 お金をもらって、生活の糧、消費ないし浪費の原資ができて、人間はいささか自由を実感する。「金銭の自由」と引き換えに、「言論の自由」を放棄したり、異なる自由同士を交換する取引もまた一種の自由であろう。

 思うには、人間には5つの自由がある――。時間の自由、場所の自由、金銭の自由、言論の自由、そして思考の自由。

 なかでも、思考の自由はもっとも高次の自由であり、物事の本質を見抜き、自由な思考をもつこと。あらゆる常識や固定概念に縛られることなく、問題の解決に取り組み、自由獲得への障害を排除していくパワーの源泉である。思考の自由を得た時点で、人間は真の意味での自由の身である。

 言論の自由がなくなると、徐々に人間は思考の鍛錬ができなくなり、最終的に思考の自由を失う。私は物書きで生計を立てているわけでもなければ、金銭的に困っているわけでもない。

 だから、私は今どこからもお金をもらわずに、自由意志でものを書いているし、発言している。人はそれぞれの立場や金銭観があるだろうから、お互いに理解し得ない部分もあろう。仕方がない。

 保守グループのなかに、来る日も来る日も中国に経済的依存しながらの「中国叩き」が多い。負け犬の遠吠えでも傷の舐め合いでも、一時的な快感があってのガス抜きにはそれなりのメンタル効用があろう。しかし世界はちっとも変わらない。

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