成長と進化、常識と非常識

 「成長」――。経済成長から企業の成長まで、今日の世界は「成長」なくして成り立たない様相を呈している。

 人間の体と同じ、成長は減速し、停止するものだ。人間は年をとると、髪を黒染めしたり、皺隠ししたり、若作りに懸命だ。青春時代への未練が捨てきれないからだ。企業や企業人の場合は、過去の成功経験にしがみつき、進化を拒絶してしまう。国や国民も同じだ。日本国民は、戦後高度成長期の記憶が消えない限り、成長停止に苦しみを感じつづけるだろう。

 「成長」は止まるものだが、「進化」はそうではない。むしろ、肉体の成長が止まった時点で、唯一の出口は精神の進化しかありえない。「進化」の繰り返しによって、新たな非肉体的な「成長」を生み出していくのである。

 「成長」とは、生物や物事が発達し大きくなることである。「進化」とは、生物の遺伝的形質が環境への適応によって生じる形態・機能・行動などの変化である。

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 「成長」は「量」であり、「進化」は「質」である。

 「進化」は、過去への否定から始まり、全面的なゼロベース思考を土台とし、持続的な学習とイノベーションを必要とする。

 「日本の常識は中国の非常識」などといった次元ではない。「常識は非常識」のつもりで取り組まなければならない。

 人間は怠け者であって、臆病者である。新たに考え、行動を起こすことが苦手な動物である。そこで、「常識」という都合のよい道具があると、皆一斉に「常識」にしがみつく。なぜなら、個人の「非常識」で行動して失敗した場合、紛れもない個人の責任になるが、「常識」で失敗しても、皆の問題であって、自分が逃げられるからだ。

 そのうち、「常識」そのものが「非常識」になっていても、なお「常識」とされ続けるのである。そこで、加齢に伴い、成長が止まり、老化が進み、場合によって退化も始まったりする。

 いまの日本、そして、多くの日本企業や日本国民は、まさにこの状況だ。それに、国民に一喝できる政治家がいないのが、まさに日本の悲劇だ。会社も同じ、道理が分かっていても、誰もが「常識」の殻を打ち破りたがらない。

 成長を忘れ、進化せよ。常識を捨て、非常識で行動せよ。二十一世紀は、非常識で進化する時代である。

 すべては、自己否定、過去否定から始まる。