● エヌビディアの中国接近
エヌビディアのジェンスン・ファン(黄仁勳)氏による、近時の中国接近姿勢は、もはや露骨の域に達しつつある。7月16日に開催された第3回中国国際サプライチェーン博覧会(CISCE)の開会式における講演では、これまで彼のトレードマークであった黒革ジャンを脱ぎ捨て、今回は中国伝統服を身にまとって登場した。
さらに、中国語でのスピーチを初めて披露し、たどたどしい発音ながらも懸命に語りかけるその姿は、単なる文化的挨拶以上の意味を持つ。この一連の演出は、ビジネス上の社交辞令ではなく、明確な政治的シグナリングである。米国政府が対中半導体輸出規制を強化し続ける中、NVIDIAはH20等、規制回避型の製品を供給し、中国との微妙なバランスを取り続けている。
今回の訪中とその所作は、黄氏が米中対立のはざまで、両国への忠誠を演出しつつ、NVIDIAの市場的・政治的延命を図る戦略の一環と解釈すべきである。
一方、中国側にとっては、このスピーチはプロパガンダとして理想的な素材である。環球時報が大々的に報じたように、「米国テック界の巨人が中国語で語りかける」構図は、中国の自信と、米国内部の分裂を象徴的に演出する効果を持つ。これこそ、中国が対外的にアピールしたい「西側の権威もついに中国に屈し始めた」というメッセージである。
観る者が見れば、これは単なるスピーチでもなければ、ファッションでもない。記号の操作であり、立場の仄めかしであり、地政学的生存戦略の布石である。

● 中国敵視と中国人排除
現在の日本社会における「中国敵視」および「中国人排除」の風潮は、その苛烈さにおいて、ナチスのユダヤ政策を彷彿とさせる。しかし、ここには根本的な違いが存在する。ナチス対ユダヤは「強者が弱者を排除する構図」であったのに対し、日本対中国は「弱者が強者に怯える構図」である。
ほぼあらゆる面において、中国はもはや日本を凌駕している。この現実を直視できない者たちは、罵倒や排除という幼稚な感情的手段に逃げ込む。だが、強者に対するそのような振る舞いは、効果を持たないどころか、滑稽ですらある。いわば、単なるガス抜き。ガス抜きは必要だが、抜き方が幼稚すぎる。
一方の中国は、日本に対する反発を激化させるでもなく、むしろ「日本は放っておけばいい」と、意識の対象から外し始めている。これは単なる戦略的無視ではなく、両国間の力関係が、もはや対等ですらないことの証左である。中国にとって日本は、わざわざ敵視しなければならない存在ですらなくなりつつある。
「敵視することができる」というのは、ある意味でまだ相手を“同格”として認識している証拠である。だが中国は、すでにその段階を超えてしまった。日本の敵視は、空虚な遠吠えにすぎない。それは強さゆえの排除ではなく、劣位にある者の自己慰撫的排除である。この心理構造を理解せぬまま、敵を罵倒し続ける限り、日本は自らの矮小さを露呈し続けることになるだろう。
● 見捨てられる日本観光
私の予測通り、中国人の日本ブームは一過性のもの、長続きしない(参考記事:『「日本はもういいかな…」年収3億円の親日家が語る、中国≪超富裕層≫が訪日を“卒業”したワケ』(2025年7月14日付東洋経済オンライン))。
「今日本に来ているのは、流行の後追い組であるレイトマジョリティとラガードだ」という指摘があったように、もう富裕層は日本に来ない。ここまでいうと、似非保守の連中は「もう来なくて良い」と情緒的になり、自傷的ナショナリズム。しかし観光関係業者には死活問題だろうけれど。
繰り返してきたように、中国人だけではない。全外国人に当てはまるが、日本文化に興味があってリピーターしているのはごく少数、むしろニッチ市場。日本文化は深くて狭い、いわばラグジュアリーな「文化ガチャ」である。だからこそ、浅い関心で広く薄く集客しようとするとリピーター化しない。これは国としてのブランディングと観光戦略の構造矛盾である。
加えて、観光庁が「リピーター誘致」と言いつつ、アニメ・着物・寿司というテンプレしか出せない現実こそが、インバウンド停滞の根因である。コンビニでスナックや弁当を買って渋谷のハチ公の前で列を成して写真を撮っても、客単価が話にならない。観光立国なら、GDPの1-2割ていどがないと、無理。
● SNSの浅薄な回答
SNSにおける「浅層的な関連づけによる自己表現の消費」という現象ーー。
一部の書き込みは、私の投稿に何らかのキーワードが含まれていることを手がかりに、自分の頭の中にある「情報の断片」や「感情的意見」を貼り付けているにすぎない。こうした行為は以下の特徴を持ちます:
投稿の文脈や構造、前提に対する理解が浅い(あるいは読んでいない)。「自分が話したいこと」を投稿者の言説に被せてくる。「議論」ではなく「自己表現」や「自説の再放送」。例えるなら、「相手の話を聞いているようで、実は自分の番を待っているだけの人」。SNSは、読解よりも即応、深掘りよりも即興が優先される場である。
そのため、投稿を「読む」よりも「反応する」ことに主眼が置かれ、議論を「展開」するより、「自己の立場表明」の機会とみなす。投稿の意味内容を「理解する」のではなく、「自己の知識の文脈に乗せられるか」が判断基準になる。これは、情報消費社会における典型的な「符号主義的自己主張」であり、議論ではなく「記号の擦り付け合い」に近い行為である。
まだまだある。立花の記事は、論理的に緻密にできている。反論はしにくいが、どこか自分の「常識」に反する。私の投稿に対して、最近よく見かけるコメントに、「全てに同意はできませんが、一理あります」といったものがある。もちろん、それ自体は悪いことではない。ただ、せっかくそう感じたのであれば、ぜひ「どの部分にどのように同意できないのか」も併せて示してほしい。
それが議論の出発点になる。
私も完璧ではない。あなたの異論から学び、視点を修正することもあるかもしれない。逆に、あなたが私の論点の意味を深く理解してくれたら、考えが近づくかもしれない。あるいは、両者が見落としていた第三の視点が見つかるかもしれない。それこそが知的な議論ではないか。「とりあえず距離を置いておく」だけでは、何も生まれない。
真の知性の探求者は――、
議論を恐れない。
議論して上辺の友情を失うことを恐れない。
さらに、論破されていわゆるメンツを失うことも恐れない。
――以上で振り落とし、真の同志だけが残る。
● 生活保護者の実態
生活保護者の取材『生活保護率9割の街~日本社会の”ある現実”に迫る』。6分30秒のところから取材された生活保護者の生活実態ーー。
「毎日タバコ3箱、1箱600円で、1日のタバコ代1800円、毎月タバコ代だけで5万円。お金はみんな役所からもらっている。生活保護で月15万円だ。さらに飲み代、毎日2000円、月6万円。だからお金が足りないんだ」と。タバコと酒で1日ほぼ4000円、私の食事代より高い。
この人たちは、おそらく食べ物は炊き出しに頼っているだけに、生活保護費はほとんどタバコや酒に消えている。日本社会が貧困になっていくなかで、国民の血税はこのように、生活保護者の嗜好品に消えている。これでいいんでしょうかね。
海外なら、生活保護制度の即時廃止を求める運動が始まるだろう。そういう生活保護者なら餓死しても誰もが同情しない。だから、日本はまだ深刻ではないのだと私は言ってきた。生ぬるい。
日本社会は、後進弱者に基準を合わせている。それは理解できなくもない。しかし、この生活保護者たちは、いったい弱者といえるのだろうか。正直者が馬鹿を見る。コツコツ働くよりもだらだらしたほうが得だ。そんな国はよくなるはずがない。日本すごいとの自慢だが、ほんとうに、すごい、すごすぎる。
● 投票雑談
「あなたの一票が政治を変える」――一票で選挙の結果が変わる確率は、雷に打たれて死ぬ確率よりも低い。だが、1億円の積み上げなら、政治を変える可能性がある。しかし、億円単位を持っている人たちのほとんどは政治を変えるつもりはない。それが政治が変わらない原理である。
投票率という「量」の問題ではなく、投票者という「質」の問題。下記の一つでも該当したら、あなたはただの愚民である――。
「人柄が良さそうだから」
「誠実そうな顔してるから」
「頑張っているから」
「爽やかだったから」
「雰囲気がいい」
「服装が清潔感あった」
※これは「選挙」ではなく「婚活」だ。
「知人の推薦だから」
「同郷だから」
「近所に住んでいるから」
「同じ宗教/団体だから」
「後援会に顔を出してるから」
※ もはや民主主義ではなく「村社会互助会」。
「頼まれたから」
「会社でそう言われたから」
「親に言われたから」
「宗教団体から票を集めるよう言われたから」
「職場で投票確認されたから」
※民主主義の私物化、半ば「組織動員型封建制」。
「テレビでよく見るから」
「CMで見たから」
「新聞に名前が出てたから」
「SNSで話題になってたから」
「有名人が応援してたから」
※思考停止型の「人気投票」。選挙ではなく「紅白歌合戦」。
「なんとなく好き」
「あの人は嫌いだからこの人に入れる」
「前の人は変わらなかったから別の人に」
「変えてみたいから」
「他がひどいから仕方なく」
※感情発散の装置としての選挙利用。結果はギャンブル。
「自分に得がありそう」
「減税って言ってたから」
「年金上げてくれそうだった」
「給付金くれるって言ったから」
※一見「合理性」があるが、全体財政や長期的視点がゼロ。
馬鹿女。――やけ酒の酒場で声をかけられたイケメン風の男と一夜を共にする。目覚めた翌朝になってチンピラだったことに気づく。歴史は繰り返す。愚民は教訓を忘れる。
2009年、日本中がこう叫んだ――「とにかく一度やらせてみよう!」理屈も政策も関係ない。自民がイヤだから民主に入れる。この程度の意思表示を「民意」と呼ぶなら、それは集団ヒステリーに過ぎない。投票率は戦後2番目の高さ。69.28%。「民意が動いた!民主主義の勝利だ!」とメディアは騒いだ。
あれだけ熱狂して選んだ民主党を、3年後には国民自らが「黒歴史」として叩き潰した。まるで酔って一夜を共にした相手を、翌朝全否定するようなもの。
だがその責任を誰も取らず、「政治が悪い」と他人事のようにまた文句を言い始めた。投票率が高まれば政治が良くなる?冗談じゃない。馬鹿が大勢集まったら、馬鹿の意見が通るだけの話だ。それを「民主主義」と呼ぶなら、民主主義はただの数の愚民による暴力の化粧直しにすぎない。
少し話題を変える。
安倍晋三氏は、外交舞台で華やかに立ち回る「良い脚本家・演出家」であったかもしれない。トランプとは「仲良し演出」、プーチンとは「領土交渉の幻想」。だが、いずれも舞台の幕が下りれば、実利は乏しく、日本の国益は一歩も前進していない。
国際政治という舞台では、観客向けのポーズ以上に、舞台裏の冷徹な戦略が問われる。安倍外交は、その「見せ方」には長けていたが、「実を取る」現実的な積み上げが伴っていたかは疑わしい。
安倍残党は、今や理念なき権力の残骸にすぎず、政局操作と派閥温存のために執拗に生き残りを図っている。彼らの存在は、国家ビジョンに基づく政治ではなく、自己保存とポスト配分に堕した派閥利権の象徴である。もはや「安倍の遺志」などという建前は空洞化し、現実には腐敗と硬直をもたらす抵抗勢力に転化している。
こうした状況において、大連立構想は必然の帰結である。イデオロギー対立を超え、政策実現と統治能力を優先する中道連携が、国家の実務と制度刷新を推し進める唯一の現実解である。そこにおいて必要なのは、敵味方の二元論ではなく、牽制と均衡による統治の再設計である。
派閥政治の本質は、政治的実力よりも忠誠心と根回しを優遇する「内輪の秩序」にある。これは国家の利益よりも派閥の論理を優先するものであり、日本政治を歪める最大の構造要因である。よって、大連立が進行すれば、安倍残党はその中で主導権を失い、崩壊に向かうことは避けられない。
この崩壊は、単なる勢力の終焉ではなく、日本政治の「自浄作用」として機能する。牽制なき長期政権の疲労を打破し、分断と対立をあおる政治から、統合と調整を重視する統治構造へと転換を促すものである。すなわち、安倍残党の崩壊こそが、大連立という新たな政治秩序の胎動を現実化する起点となる。




