
● 隠された自尊心、ムッツリ自己愛の構造
日本人が謙虚なのに、なぜ「日本すごい」がブームになるのか?
日本すごい→日本人すごい→自分すごい。
誰にも程度の差があっても「自己愛」を持っている。日本人の場合、私は名付けて「ムッツリ自己愛」という。ムッツリ自己愛とは、個人主義なき社会において密かに育まれる、内向きで湿度の高い自己崇拝である。主張すれば「出る杭」として叩かれ、沈黙すれば「謙虚」として賞賛されるこの社会では、堂々たる自己表現は常にリスクであり、結果として自己愛は「隠し持つもの」へと変質する。
見せないことが美徳とされる文化において、見せない自分への自己満足は限りなく肥大化する。それがこの国に蔓延する、湿っぽく、こじらせた、ムッツリ型の自己愛である。
西洋型のナルシシズムが「鏡に向かってポーズを決め、賞賛を求めて叫ぶマッチョな自己愛」だとすれば、日本型――とりわけ「ムッツリ自己愛」は、鏡を内側に隠し持ち、心の中で拍手喝采を浴びているひとり芝居型ナルシシズムである。「日本すごい」とは、国家という巨大なスクリーンを使って、自分の影を巨大化させるムッツリ型ナルシシズムの祝祭である。
自らを誇るには器が足りない、だが黙っていても褒められたい――そんなこじらせた承認欲求が、国旗の背後に隠れて薄暗く光っている。自分のすごさを語るのは下品だが、「日本人として誇りに思う」と言えば、あら不思議、自尊心の押し売りが美談に化ける。国家を讃えるふりをして、自分を間接的に賞賛する構造。それがこの国に蔓延する、「謙虚なふりをした自己陶酔」のメカニズムである。
「世界が日本を絶賛している」という番組を見て涙ぐむ人間の多くは、自分自身が褒められていると無意識に錯覚している。だがその実、彼らが愛しているのは日本ではない。「日本という仮面をかぶった自分」である。彼らは言う、「自分がすごいとは言ってない、日本がすごいと言っているだけだ」と。
国家を讃える美名の裏で、個の貧困が群れの威光を借りて肥大する。ムッツリ型ナルシシズムとは、声高に主張しない代わりに、国全体を巻き込んで自我を肥やす装置なのである。そうなんです。「全体主義的自己愛」でもあるのだ。
● 愛国という仮面、全体主義的自己愛のメカニズム
「日本すごい」。言い換えれば?「全体主義的自己愛」である。個人の器では受け止めきれない欲望を、国家の器に注ぎ込む。それが全体主義的自己愛である。「私」はちっぽけで語れない。だが「我々日本人は」と言えば、一気に自己言及が正当化され、声がデカくなる。集団を媒介することで、自己愛が無罪放免される構造である。
これは愛国でも忠誠でもない。自己愛の拡張のために祖国を私物化する知的な背徳である。「国の誇り」は口実、「文化の美徳」は隠れ蓑、最終目的は「自己正当化の永久免罪符」の獲得に他ならない。
このタイプの人間は、国が批判されるとまるで自分が殴られたかのように過剰反応する。なぜなら、本当に殴られているからだ――国と自分を同一視している以上、外部からの批判は即ち自我への攻撃と解釈される。これは防衛ではない、精神的自傷行為への先制報復である。
全体主義的自己愛は、群れに溶け込みながら個を賛美し、個を語らずして自己陶酔し、集団の名で自己満足に耽る。それはもはや思想ではない。国旗をまとったナルシシズムである。
似非保守とは、伝統や国家を語りながら、その実どれ一つ自らの血肉にしていない者どもである。彼らは語る、「日本は素晴らしい」「世界が日本を賞賛している」と。だがその言葉は、学びや経験からくる知見ではない。自尊心の点滴として打ち続ける愛国風自己肯定剤に過ぎない。
彼らは保守ではない。守るべき伝統も思想も無い。ただ、「失われた自信」という幻を守っているにすぎない。言葉は勇ましいが、行動は空虚。過去の栄光を背景に、自分の無為を照らし出すという滑稽な構図の中で、彼らは「誇り」という名の寝袋にくるまって現実から逃げ続けている。「反日が許せない」と怒るが、その実、怒っているのは「自分が思うほど認められていない自分自身」に対してである。
「日本は誇りを取り戻せ」と叫ぶが、失われているのは日本の誇りではない。彼ら自身の「個としての自己肯定力」である。似非保守は、言論の自由を盾にしながら異論を叩き、歴史の真実を「自虐史観」と呼び捨て、都合の悪い事実は「反日」と断じる。もはやそれは保守思想ではない。「鏡を割ったくせに、映らないことを世界のせいにする病人」の咆哮である。
● 行動なき叫び――反中ごっこと保守の空洞化
似非保守は、反中を声高に叫ぶ。だがそれは戦略でも政策でもなく、自己の劣等感を一時的に麻痺させるための口撃である。「中国から日本を取り戻せ」と叫ぶその口で、今日もアリババで買った商品が届き、着ている服は中国製、スマホの部品も中国経由。だが彼らはそれを見て見ぬふりをする。「行動」が「言葉」に追いつかないのではない。「言葉」だけが先走っているのだ。
本当に「中国から脱却」したいのなら、まずやるべきは経済的断絶という痛みを受け入れる覚悟である。中国サプライチェーンを断てば、衣食住のコストは跳ね上がる。生活コストが倍になることも十分にありうる。だが、そこまでの「自己犠牲」は彼らにとって想定外である。なぜなら、彼らの保守思想は「生活を壊さない範囲での愛国ごっこ」だからである。
選挙で本気で反中を訴えるなら、「中国製品ボイコット」「チャイナフリー生活」「代替産業支援策の提案」などが出てくるべきだが、聞こえてくるのは「売国議員を叩け」「スパイ防止法を」など、責任の外注と敵の妄想化ばかりである。彼らができないのは、できないのではなくやる気がないからである。やる気がないのは、やったら自分の生活が破綻するからである。
そして破綻するのは、彼らの多くが社会の中間以下の弱者層に属しているからである。その姿はまた痛々しい。





