中国は「民主」国家である、なぜ?

 習近平は最近、米国は名ばかり民主主義であり、中国こそが民主国家であると言い出した。大方の人は相手にせず一笑に付しているが、彼には彼なりの論理があると思っていろいろ推敲してみた。

2013年11月北京出張中

 米欧・西側の「民主」は、天賦人権論の源流を汲み、「権」たるものは「天」から「人」に賦与され、「民」が「主」とされている。政府は民から選ばれた民の代表であり、契約のもとで国家を治めるという社会契約説に基づいている。

 しかし、中国は違う。「天子」つまり皇帝という、天命を受けて天下を治める者が存在する。「民」が「主」ではなく、天子が天から選ばれた民の代表、「民」の「主」である。

 では、天子が天命に逆らって、暴君となり天下を治められなくなった時どうするかというと、民の投票で主を変えるのではなく、蜂起や暴動、クーデター、外敵による侵攻などの形で主を変えるのである。それが「替天行道」(出典:水滸伝、梁山泊の旗印)、誰かが「天に替わって道(正義)を行う」ということだ。

 「替天行道」の結末は、「改朝換代」、王朝が変わるということになる。「改朝換代」を回避するためにも、天子が天命を悟り、主らしく民のために「仁政」を施し、最善を尽くさなければならない。それが西側の民主主義に代わる牽制機能になっている。

 「仁政」とは何か。平たくいえば、民が餓死せずそこそこ飯が食える「小康」状態を指している。それが鄧小平以降の指導者が小康社会を目指した理由でもある。中国が世界第2位の経済大国になり、そしてついに2021年に「小康社会の全面達成」が宣告された。

 そして、富国強兵。経済力に加え、米国と対峙する強さも手に入れたことで、習近平は天子としてその天命を見事に全うしたといえる。今さら、それこそ民主主義につまずいた米国から批判される筋合いはない。と、習近平はそう考えただろう。

 天下の概念からすれば、民は民らしく、(君)主は主らしくするのが、「民・主」の均衡関係の成立を意味する。そういうことで、米中のいわゆる「民主」の定義が根底から異質なものであり、喧嘩しても何の意味もない。

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