<雑論>マレーシアのコールセンター / 高市が総理になる / なぜ中国の時代か? / 経営を学ばない理由 / 儲かる企業は賃上げすべきか?

● マレーシアのコールセンター

 マレーシアでの日本人現地採用といえば、コールセンター。かつてマレーシアのコールセンターには、日本人の若者や中堅が「現地採用」として渡り、電話口で“おもてなし日本語”を売りにしていた時代があった。

 クアラルンプールの雑居ビルに入れば、そこには異国の空気を漂わせながらも、丁寧な敬語で応対する日本人たちの姿があった。だが、その風景はすでに薄れつつある。AIが声を持ち、敬語を操り、苦情処理すらこなすようになった今、わざわざ日本人を雇う理由が急速に消えている。「日本語人材」というかつての希少価値は、機械によって再現され、模倣され、そして淘汰される運命にある。

 マレーシアのコールセンターが衰退していくのは、今この世の中に生じる数多くの、かつて想像できなかった「変化」である。これは「諸行無常」という言葉に象徴される通り、「無常」とはすなわち絶え間ない変化を意味するものである。ところが、特に日本人は「変化」を嫌い、「安定」「安心」を過度に求める傾向がある。しかしそれは自然の摂理に反するものであり、人工的に構築された独善的な「善」にすぎない。

 本来、人間社会は変化を前提として成立し、変化に適応することで生き残り、発展してきたはずである。それを無視し、停滞を美徳とする態度は、短期的には安定を与えるかもしれないが、長期的には必ず衰退を招く。世界は常に動いており、変化は止められない。変化を拒むのは自然に逆らう行為であり、必然的に淘汰の対象となる。

 ゆえに、私の哲学は「変化に順応する」こと、さらには「変化をリードする」ことである。変化に追随するだけでは不十分であり、主体的に変化を方向づけることこそ、人間社会が自然の摂理と調和しつつ未来を切り拓く唯一の道であると考える。

● 高市が総理になる

 高市早苗氏が自民党総裁に選ばれ、総理大臣に就任する。史上最上の女優首相が登場し、日の丸劇場はクライマックスを迎える。しかし、フィナーレにはアンコールがない。

 安倍残党は名を改め、「麻生新党」として蘇った。腐臭を放つ保守の墓場に、花を供える儀式のような政権交代である。高市氏はその花瓶に挿された造花にすぎず、根もなければ香りもない。

 靖国参拝? そんな気骨のある政治家ではない。師匠の亡霊にすがる勇気もなく、麻生の機嫌を伺う現実主義者を演じるのがせいぜいだろう。外交という舞台の上では、靖国の扉は再び封印され、代わりに「台湾」という便利な台本が用意される。高市はそれを読み上げるだけだ。演技の質は高い。何せ彼女は政治家ではなく、国家劇場の主演女優だからである。

 彼女が台湾を叫べば、中国は琉球を叫ぶ。それが国際政治の対称原理というものだ。北京の外交家たちは、彼女の台詞を聞きながら冷笑しているだろう。「出番を待つ道化」として。高市が台湾を守ると宣言するほど、琉球は「歴史的争点」として中国のレーダーに浮上する。自らマイクを握り、敵の脚本に従って歌う、それが日本政治の新スタイルらしい。

 2026や27年あたり、中国が台湾統一に踏み切ったとしよう。米軍は腰が重い。アメリカ兵の棺桶を増やす気などさらさらない。沖縄基地は封印されるか、限定的使用にとどまる。高市氏は叫ぶ。「台湾を守る!」と。しかし、実際には何もできない。口先防衛大臣である。結果、台湾台湾と騒ぎ立てたその口が、今度は自らの政治生命を噛み砕く。「台湾詐欺」政権の烙印が押されるのだ。

 では、もし米軍基地を使えばどうなるか。中国は即座に「琉球問題」を持ち出し、国際世論の前で「沖縄は日本に属さず」と宣言する。高市氏の叫び声が、沖縄攻撃の大義名分になる。見事な自爆芸である。まさに、愛国のふりをした売国演技。

 結局のところ、高市とは「靖国封印・台湾熱演・沖縄炎上」という三幕悲劇の主演女優である。師匠・安倍の幽霊を再演するつもりが、麻生劇場の脇役に格下げされた。保守幻想の女優が、現実政治の舞台で滑って転ぶ。拍手は起きない。観客はすでに席を立っている。

 それでも彼女はマイクを握り、演説を続けるだろう。観客がいなくても。照明が落ちても。なぜなら、この国の政治は、理性ではなく照明によって動いているからである。

 高市支持層には三つの特徴がある。
 1. 安倍マネーで潤う者。
 2. 馬鹿者。
 3. 上記二者を束ねる一。

 はっきり言っておく。私は高市支持層を見下している。彼らは現実の政治を見ていない。見ているのは、政治という名の幻想ドラマである。高市氏は、その主演女優だ。彼女は国家の運営者ではなく、保守幻想の演者である。本気で国を動かす意思もなく、ただ「強い日本」「美しい伝統」といった抽象的スローガンを、ポルノ的快楽として反芻する。それは思想ではない。自慰である。彼女は単に、そのマスターベーションにビニ本を提供しているにすぎない。

 人を論じて事を論ぜず、これ民主の病なり。民の声は声にして、理にあらず。声多き者勝ちて、理深き者沈む。

● なぜ中国の時代か?

 中国共産党に嫌悪感を持つ日本人が多い。感情と違って、私はここで3つの事実を挙げたい――。

 第一に、中国共産党が実際に行っているのは「共産主義」ではなく「国家資本主義」である。計画経済の看板を掲げつつも、実態は市場原理を部分的に導入し、国家が資本と産業を統制・育成する体制にほかならない。したがって、理念的な共産主義批判は現実を見誤る。

 第二に、中国共産党政権は、中国をわずか数十年で貧困国から世界第二位の経済大国にまで押し上げた。この成果は、腐敗や人権問題の議論を別にしても、歴史的事実として否定できない。多くの中国人が政権の正統性を一定程度認める背景には、この経済的成功がある。

 第三に、日本人自身の生活がすでに中国のサプライチェーンに依存しているという現実がある。家電、衣料、IT機器、食品原材料に至るまで、中国製や中国経由の商品なしでは日常生活が成り立たない。感情的な「反中」姿勢を掲げても、この依存構造を否定することはできない。

 今後の半世紀は、中国の最盛期である。

 中国の王朝は平均200〜300年で交替してきた。漢も唐も明も清も、この循環から逃れられなかった。中華人民共和国はいま成立から80年弱。歴史の周期から見れば、衰退期にはまだ遠く、むしろ本格的な最盛期を迎えようとしている。次の50年は、中国の「王朝としての最盛期」にあたるだろう。経済力、技術力、軍事力、そして人口規模に裏打ちされた影響力は、必然的に米国を凌駕する方向に向かう。

 民主主義の短期循環に翻弄される米国に対し、長期循環のリズムに乗る中国は、むしろ安定性を保ちながら膨張する。歴史を千年単位で見るなら、これから半世紀は「中国の時代」である。米国を超えるのは偶然ではなく、歴史メカニズムの帰結にほかならない。

● 経営を学ばない理由

 「日本人経営幹部は経営を学べ」と喝破する識者がいる。まったくその通りだ。だが私は、さらに問いを深めたい。「なぜ彼らは経営を学ばないのか」である。

 学べないのか。
 学ぼうとしないのか。
 あるいは、学んでも役に立たないのか。

 私の見立てでは、日本人経営幹部が経営学を真剣に学ばないのは、単純な無知や怠慢のせいではない。むしろ、彼らにとって純粋な経営学は、日本型組織の中ではほとんど実利をもたらさず、個人の出世においても評価されないからである。

 では彼らは何を学んでいるのか。答えは明白である。日本人経営幹部の多くが「経営」ではなく「組織政治」を熱心に学んでいるのだ。

 経営とは「技術型課題」である。理論を学び、方法論を実践に落とし込み、成果を定量化する。しかし日本の組織においては、いかに合理的な戦略を描こうとも、組織文化や既得権益の壁にぶつかり、技術的合理性は容易に封殺される。

 一方、組織政治は「適応型課題」である。利害調整、権力配分、根回し、派閥力学――これらを自在に操る方が、はるかに実効性があり、実践的価値が高い。昇進や保身、影響力の拡大といった現実の利益に直結する。

 結局、日本人経営幹部は経営学を「学ばない」のではなく、「学ぶインセンティブが存在しない」のである。学ぶべきは経営ではなく、政治。これが日本企業に蔓延する現実であり、そして衰退の深層原因でもある。

● 儲かる企業は賃上げすべきか?

 2025年10月2日付日経新聞の記事『企業なお賃上げ余力 低下する労働分配率、ためた現預金260兆円』。企業の収益が増えれば、賃上げするべきだという主張に対して、私は三つの疑問を提起する。

 第一に、経常利益と人件費の紐づけ上昇の根拠は何か。経常利益は資本収益であり、労働者への給付である人件費(労働収入)とは本質的に性格を異にする。両者を安易に関連付けることは乱暴であり、むしろ社会主義的発想に近い。しかも、もし賃金を利益と直接連動させるのであれば、企業が赤字に陥った際には労働者の賃金削減にも自動的に連動しなければならない。それは社会的公正を損なうものであり、片側の紐づけだけを主張することは全体的論理を破壊する。

 第二に、人件費は本来「総利益」とではなく「一人当たり生産性」と紐づけられるべきである。資本の収益に依存した分配は不安定である一方、労働の成果に応じた給付は公正であり、かつ持続可能である。生産性指標を基準に賃金を決定する方が、労使双方に納得感をもたらす。

 第三に、さらに生産性によって従業員を区分して対処する必要がある。高生産性の従業員には積極的に賃上げを行い、平均的水準の従業員は現状維持とし、低生産性の従業員については再教育か退出を促すべきである。均一的な賃上げは逆インセンティブを生み、優秀な人材の流出を招く。

 要するに、企業の資本収益と労働収入を同列に論じることは制度論的に誤りである。賃上げの議論は「利益総額の分配」ではなく「労働生産性に基づく選択的配分」に立脚すべきである。これこそが、持続的な経済成長と労使双方の納得感をもたらす道である。

 資本収入とは、株主や投資家が資本投入によって得るリターンであり、リスク負担と表裏一体にある。変動も激しく、景気循環や金融要因に強く左右される。一方、労働収入は、労働者が提供した労働サービスに対する対価であり、契約に基づく安定性を前提とする。両者は性質が全く異なる。

 にもかかわらず、日経新聞が「利益が出ているのだから人件費を増やせ」と論じるのは、資本収益を労働者にそのまま還元すべきだという社会主義的な等式を暗黙のうちに持ち込んでいるに等しい。もし論理を一貫させるならば、「赤字になれば賃金を自動的に削減すべき」という結論にも至らざるを得ない。しかし、それを言い出さないのは、労働者保護のイデオロギーと利益還元論が都合よく同居しているからにほかならない。

 なぜこれだけ基本的な論理を日経新聞が理解できないのか。それは、日本の経済報道が「制度論」や「経済学の根本原理」ではなく、「社会的通念」や「世論受け」のフレーズを優先して記事を組み立てるからである。つまり、読者の期待に応じた「安心感」や「善意の物語」を提供することが目的化してしまい、制度的に矛盾する言説を平気で並べ立てる。結果として、資本収入と労働収入の区別すら曖昧にしたまま、情緒的な「賃上げ余力」論へと誘導しているのである。

 言い換えれば、これは「変化を嫌う日本社会の安心幻想」と同根ではないでしょうか。資本と労働の差異を直視すれば、賃金制度改革や生産性連動配分の不可避性が露わになってしまう。それを避けるために、日経は「善意の物語」を繰り返しているように見えます。

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