議論を善としない「和」の破壊者、論理的議論という基盤の共有

 信条や信仰、宗教、ないし政治的立場の相違は基本的に人間同士の付き合いや友情を妨害しない、また妨害すべきでもない。唯一つ、論理的に議論すること、この基本的ルールを共有できれば、逆に互いに異なる視座や目線の存在を気付かされ、互いに刺激を与え合い、互いに成長する余地を得ることができ、これ以上ない有益なことではないかと、私は考える。

 ただ日本人というのはどうも、議論することイコール友情の終結や関係の破裂のようなシリアスな感覚をもってしまうので、なかなか面と向かって議論ができないことを非常に残念に思う。これが「和」というのなら、私自身が大きな「和」の破壊者にほかならない。

 村社会的な「和」というのはやはり議論を善とせず、いつまでも、観点の表明を避け、曖昧な姿勢にしていわゆる中庸的、いや正確に言うと保身的立場を保たなければならない。これは歴史的にも文化的にも日本という島国にとって一種の大切な価値観であろうし、否定するつもりは毛頭ない。

 ただ私自身にとって、これが非常に大きな負担で、精神的なストレスでもあるがゆえに、「和」の秩序を破壊し続けてきたのであり、周りから「お前はいつか、刺されるかもしれんぞ」とまで言われたりしても、なお反省の色がなしという徹底的原理主義的な確信犯でござる。

 ここ5~6年来、特に政治に興味を持ち始めると、「ただでさえ角が立っているのに、今度は政治か」と妻にさんざん呆れられながらも、どんどん角を尖がらせてきた一方である。特に選挙が近づいてくると、ピリピリしてくるものだ。そもそも社交の場での炎上を何とも思わない自分がある意味で危険分子的な存在であろうし、そういう意味で老獪的まで程遠い若作りに余念のない熱血青年ならぬ中年、いや老年に向かって突進する変り者である。

 といっても、政治や哲学は、特に思考回路的に、私のコンサル現場で大きく役に立っていることは変わらぬ事実で、今後もこよなく愛し続けることであろう。