冷え込む日にはやっぱり鍋、上海でフォンデュを食す

 落葉が始まる頃、上海は朝夕めっきり冷え込む日が続いている。鍋が恋しくなる季節だ。

 第1弾として、宿泊ホテルのイタリアンでフォンデュ鍋をいただく。感想ですか?良すぎた。何といったらいいだろう。具材の肉類はすでに見事なステーキ状態に調理されているので、そのまま食べても十分美味しい。そこで、鍋に突っ込むのがもったいなくなってしまう。

 スイスで食べたフォンデュよりも美味しかった。ご馳走様。

<次回>

上海でビザイア社趙会長と会談、コンサルの新業態検討

 10月29日(日)。クアラルンプール早朝発のマレーシア航空MH388便で、午後上海到着。夕方、虹橋錦江ホテルにチェックインしたら、すぐに部屋でミーティング開始。

 第1ラウンドは、ビザイア社の趙会長と田中社長。面白いことに、趙会長との初対面出会いは、数ヶ月前の上海浦東空港だった。入国を済ませたところ、「もしや、立花先生?」と声をかけてきたのは趙会長。偶然にも同じベトナム発の便に乗っていた。

 数分間の立ち話で今度ゆっくり話そうと約束したことが今回で実現した。正直日本語ビジネスコンテンツ関係のメディア事業をされていることは理解したが、今回の話でそれを超えた内容を聞かされた。

 アジア対象とする日本語ビジネス情報をよりアクセスしやすい状況にし、クラウドテレビ会議・セミナー・顧客コミュニケーションといった包括的プラットフォームを構築する、このような事業であった。

 というよりも、ちょうど良いタイミングに、私が考えていた自分のコンサル事業の形態変革とぴったり一致する部分がたくさんあったのだった。

 いま、中国とベトナムの2拠点をメインにしているだけでも、かなりハードな状態になってきている。何よりも、物理的な移動にもっとも時間や労力、金銭的費用がかかっている。これもひとえに対面という形に拘ってきたからだ。

 同じ中国でも、たとえば広州や重慶からリクエストがあっても、応えられない。アジアでも、ジャカルタやバンコク、あるいは西アジアのインドに目を向けようとしても、やはり物理的な制限で限界を感じている。さらにいえば、アジア地域の日系企業の現地従業員教育など、挙げたらきりがない。

 この制限をどうやって突破できるか、最終的にコンサル事業と最新のIT技術との融合にしか答えが見出せない。と、私がいま描いている事業像、それが趙会長のビザイア社との連携によってどこまで実現できるか。私にとって、大きな楽しみが1つ増えたといえる。

進化と退化の関係、そして価値と価格の関係

 ベトナム事務所の拡張で、連日面接や採用に追われている。最近の面接は、ほぼSkypeで行われるので、時間や場所の制限を受けない。特に在職者の面接は、勤務時間外や土日になるので都合がよい。

 ≪★顧客向けレポートに転載するため、以下すべて削除しました。ご了承ください★≫

狩猟採集社会から農耕社会へ、進化に伴う喪失と退化

 狩猟採集社会から農耕社会への所謂進化は、果たして「進化」といえるのか。

 その進化に伴う喪失ないし退化とは何か。やはり生存本能の弱化と、その弱化を正当化する諸解釈である。つまりは、牙を悪とする解釈だ。

 狼と羊。狼がなぜ悪、羊がなぜ善なのか。種の進化を科学的理論としながらも、倫理的解釈を導入する。その時点で人類が自ら自己矛盾を抱え込む。

 哲学からも科学からも逸脱する諸々の解釈を、とうとう宗教で裏付けようとする。

 大勢の弱者は、死後の彼岸に天国という極楽世界が待っているのだと。そんなにいいのなら、早く死んだ方が良くなかった?これも矛盾だ。

 ニーチェいわく「事実はない、解釈のみがある」。まさにその通りだ。

気持ち悪い、政治家の「寄り添う」姿

 「国民に寄り添う」。これは天皇陛下のお務めとご姿勢でおられ、大変尊いものである。

 政治家には、軽々と「国民に寄り添う」などと言ってほしくない。政治家の責務は、国家国民全体利益の最大化である。「優しさ」よりも時には「厳しさ」すら求められる。

 国民にとって耳が痛いことを言わなければならないし、国民が嫌がる決断をもしなければならない。故に、政治家の「寄り添う」姿勢がいかに女々しく売名的に見える。

自助主義論者の「愚民論」、外的支配と内的支配

 私は徹頭徹尾「自己責任」の立場を貫く、自助主義の冷酷者である。

 人に援助を与えることこそ、「上からの目線」だ。援助の付与は当人の自助力を弱め、その人をダメにしてしまう、と私は考えている。私の考えを裏付ける根拠といえば、スマイルズの「自助論」の一節を引用したい。

 「外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間をいつまでも励まし元気づける。人のために良かれと思って援助の手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失い、その必要性をも忘れるだろう。保護や抑制も度を過ぎると、役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである」

 現代、多くの日本人は不幸を感じている。その不幸の原因には「制度悪」や「社会悪」を挙げている。

 スマイルズは、「いかに優れた制度をこしらえても、それで人間を救えるわけではない。・・・いつの時代にも人は、幸福や繁栄が自分の行動によって得られるものとは考えず、制度の力によるものだと信じたがる。だから、『法律をつくれば人間は進歩していく』などという過大評価が当たり前のようにまかり通ってきた」と指摘する。

 さらに、「われわれが『社会悪』と呼び習わしているものの大部分は、実はわれわれ自身の堕落した生活から生じる。だからいくら法律の力を借りてこの社会悪を根絶しようとしても、それはまた別な形をとって現れ、はびこって行くに違いない。国民一人ひとりの生活の状態や質が抜本的に改善されてはじめて、このような社会悪がなくなる」と痛烈な批判が続く。

 日本人には耳が痛い話だ。

 政治に対する批判、制度に対する批判をよく耳にしても、日本人自身に対する批判はあまり聞かない。日本人批判、それはさぞかし気色が悪い。偏向報道を痛烈に批判する。ではその本質とは何か。偏向報道を好む国民層がいるからこそ、偏向報道がぬくぬくと生存しているのではないか。需要があっての供給。

 日本人はいつから自己批判ができなくなったのだろうか。自己批判、自己否定そして痛みを伴う進化こそが優秀な民族の証ではないだろうか。日本人は優秀な民族だ。だからこそ、平均民度を保たなければならない。ただ、どんな優秀な民族にも愚民は存在する。福澤諭吉氏が「学問のすすめ」にこう指摘する。

 「斯る愚民を支配するには迚も道理を以て諭すべき方便なければ、唯威を以て畏すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり」

 福翁の「愚民論」に呼応するかのように、スマイルズがこう語る。

 「国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。これは、水が低きに流れるのと同じくらい当然の論理である」

 人間には、「外的支配」と「内的支配」という2つの支配が存在する。スマイルズいわく「すべては人間自らをどう支配するかにかかっている。それに比べれば、その人が外部からどう支配されるかという点は、さほど重要な問題ではない」

 本質の洞察である。「外的支配」と「内的支配」の受容選択を決めるのが人間だ。その判断自体も、「内的支配」に由来する。換言すれば、人間自分は自分の主人公になっているかということだ。

 どんな劣悪な社会環境の下においても、気力、迫力、胆力、知力、行動力をもって、生き抜く。「内的支配」を生命力の源泉とする人格をもって、生き抜く。そして、幸福になる。

「まっとうな政治」とは?政治と経営の違い

 衆院選が終わった。大方の予想通り、自民が大勝した。ただ、ちっとも楽観できない。どう見てもダメな輩も当選している。どんな選挙民がどういうつもりで1票を入れたのだろうか、さぞかし信じがたい。

 ふと思いつくことだが、政治と経営の違いとは何か。基本的に、経営に長けても政治がうまくいくとは限らない。経営のプロ、大前研一氏もその好例。数億円の私財をなげうって選挙に出ても、惨敗。氏は後日「大前研一敗戦記」という本を書いて、「二度と政治をやらない」と言った。

 経営は人を選ぶこと。政治は人に選ばれること。それが大きな差異だ。私から見れば、経営は弱者を振り落とし、構成員の選別と排除を前提としている。どんな美辞麗句を並べる経営者でも、入社試験を課している以上、それは「選良」であって、「選強」である。

 企業は、馬鹿社員を必要としないが、国家は、馬鹿国民でも包容しないとダメなのだ。その馬鹿な愚民層が厚くなればなるほど、政治家自身がたとえ賢者であっても、馬鹿なふりをしないと当選できない。大前氏のように理性的な経営理念を駆使した選挙手法を取ったら、待っているのが落選にほかならない。

 行政改革や小さな政府が良いとする一方、完璧な行政サービスや社会保障を求める。子供の世代に借金を背負わせたくないと言いながら、増税に反対する。政治だけではない。良いサービスを求めながら、格安料金をも強要する。おかしいですよ。社会が非論理性で空転していて疲弊化している。

 非論理性を平気で持ち合わせる馬鹿な国民は決して少数ではない。こういう選挙民を前に論理的なアプローチをとれるのだろうか。

 「まっとうな政治」。最近政治の世界で流行語になっている。「まっとうな政治」とは何か。まず「まっとうな選挙民」がいなければ、「まっとうな政治家」が生まれない。「まっとうな政治家」がいなければ、「まっとうな政治」などできるはずがない。

哲学勉強の勧め、体力づくりの基礎トレーニング

 日々勉強。いろんな学問があるなか、何が一番重要かと聞かれたら、それはやはり哲学だと、私は答える。

 でも、哲学は難しい。何が難しいかというと、2つある――。

 まずは、哲学書は確かに難解なものが多い。1ページを読むのに10分や20分かかることもしばしば。まさに悪戦苦闘。そこで欲張ってはいけない。1人好きな哲学者の著作を何冊も精読したところ、ようやくその哲学者の思想の枠組みがぼんやりと見えてくる。

 次には、ようやく別の哲学者の著作に手を出す余裕が少し出てくる。そこで、一難去ってまた一難。哲学者同士が互いに否定し合い、非難し合うのだ。おいおい、どっちが正しいんだよとまたまた困ってしまう。いや違う、哲学は正解を求める学問ではない。思考方向の学問なのだ。

 自然科学も社会科学も、いろんな学問分野がある。オリンピックに例えると、陸上競技や水泳、体操のような競技項目となるが、哲学はどちらかというと、体力づくりの基礎トレーニングのようなものだ。大変地味だが、とても重要である。

「要らず学」とは?

 大学って、なぜ、「サバイバル学」という学科がないのだろうか。それはつまり、「大学要らず学」である故に、教えられない?

 私は経営コンサルタントだ。だが、目指す企業経営の極意は、「コンサル要らず」である。決して矛盾とは思っていない。

 親の子育てもそうだ。1日も早く子供が巣立ちして「親要らず」になることが目標ではないだろうか。

 人間の死に方もまた然り、死に際に「私が死んだ後、誰もが困らない」と思ってこそ安らかにこの世を去ることができよう。

 1人の人間にとって他人に頼られることは実は、甘美なものだ。自分の存在価値を実感する瞬間でもある。だが、それは相手に対して責任あるあり方なのだろうか。答えは各自にあってよい。