自助主義論者の「愚民論」、外的支配と内的支配

 私は徹頭徹尾「自己責任」の立場を貫く、自助主義の冷酷者である。

 人に援助を与えることこそ、「上からの目線」だ。援助の付与は当人の自助力を弱め、その人をダメにしてしまう、と私は考えている。私の考えを裏付ける根拠といえば、スマイルズの「自助論」の一節を引用したい。

 「外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間をいつまでも励まし元気づける。人のために良かれと思って援助の手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失い、その必要性をも忘れるだろう。保護や抑制も度を過ぎると、役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである」

 現代、多くの日本人は不幸を感じている。その不幸の原因には「制度悪」や「社会悪」を挙げている。

 スマイルズは、「いかに優れた制度をこしらえても、それで人間を救えるわけではない。・・・いつの時代にも人は、幸福や繁栄が自分の行動によって得られるものとは考えず、制度の力によるものだと信じたがる。だから、『法律をつくれば人間は進歩していく』などという過大評価が当たり前のようにまかり通ってきた」と指摘する。

 さらに、「われわれが『社会悪』と呼び習わしているものの大部分は、実はわれわれ自身の堕落した生活から生じる。だからいくら法律の力を借りてこの社会悪を根絶しようとしても、それはまた別な形をとって現れ、はびこって行くに違いない。国民一人ひとりの生活の状態や質が抜本的に改善されてはじめて、このような社会悪がなくなる」と痛烈な批判が続く。

 日本人には耳が痛い話だ。

 政治に対する批判、制度に対する批判をよく耳にしても、日本人自身に対する批判はあまり聞かない。日本人批判、それはさぞかし気色が悪い。偏向報道を痛烈に批判する。ではその本質とは何か。偏向報道を好む国民層がいるからこそ、偏向報道がぬくぬくと生存しているのではないか。需要があっての供給。

 日本人はいつから自己批判ができなくなったのだろうか。自己批判、自己否定そして痛みを伴う進化こそが優秀な民族の証ではないだろうか。日本人は優秀な民族だ。だからこそ、平均民度を保たなければならない。ただ、どんな優秀な民族にも愚民は存在する。福澤諭吉氏が「学問のすすめ」にこう指摘する。

 「斯る愚民を支配するには迚も道理を以て諭すべき方便なければ、唯威を以て畏すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり」

 福翁の「愚民論」に呼応するかのように、スマイルズがこう語る。

 「国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。これは、水が低きに流れるのと同じくらい当然の論理である」

 人間には、「外的支配」と「内的支配」という2つの支配が存在する。スマイルズいわく「すべては人間自らをどう支配するかにかかっている。それに比べれば、その人が外部からどう支配されるかという点は、さほど重要な問題ではない」

 本質の洞察である。「外的支配」と「内的支配」の受容選択を決めるのが人間だ。その判断自体も、「内的支配」に由来する。換言すれば、人間自分は自分の主人公になっているかということだ。

 どんな劣悪な社会環境の下においても、気力、迫力、胆力、知力、行動力をもって、生き抜く。「内的支配」を生命力の源泉とする人格をもって、生き抜く。そして、幸福になる。

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