人生は神探しの旅、哲学も神学も解決できない問題とは?

 世界や宇宙を誰が創ったのか。神が創ったのだ。では、神は誰が創ったのか?

 哲学というのは「なぜ」を問う学問である。その終極は、世界の存在を問うものである。その問いに答えられる者がいないから、神という解釈が作られた。つまり哲学で解決できない問題は、神学によって解決する。だから、神学の世界に「なぜ」を問う哲学を引っ張り込むことはできないのだ。

 神は存在するのか。神の存在も証明できなければ、神の不在も証明できない。それ故に、神は未確認事項である。未確認であるから、信じるか信じないかの次元になる。

 さらにいうと、誰が神なのか、神は1人なのか複数なのか、この一連の問いもいつまでも答えがない。これからもあり得ない。異なる宗教には異なる解釈がある。同じ宗教にも異なる宗派があって、異なる解釈がある。そもそも、神がいたとしても人間や人間集団が解釈しているのだから、異論が生じるわけだ。

 一体どうなっているんだ。一番良い方法は神に自分から聞いてみることだ、神が存在していればの話だが。ということで、人生はある意味で神探しの旅にしてもいいのではないか。いやそうしなければいけないのかもしれない。

 と、日曜の朝、コーヒーを飲みながら、ぼーっとしながら、こう考えている。