畏れられながら愛される、経営者の帝王学

 法律も制度も、基本的に「性悪説」がベース。日本(日系)企業で従業員のご機嫌取りで「全員に喜んでもらいたい」というよう「性善説」的なふにゃふにゃ型トップもいるが、まあ、経営者とはいえないだろう。

 経営者というのは、帝王学のもとで、従業員に「恐れられながら愛される」存在でないとダメ。この両立は絶対に必要だ。

160614-1142-Cameron Highland-農業研究試験場_01キャメロン高原の花(2016年6月14日撮影)

 「恐れる」は、決してマイナス表現ではない。「恐れ入る」という日本語は、「相手の力量・実力に圧倒されてそれを敬う」という意味を含んでいる。

 「恐れる」は「怖れる」とも「畏れる」とも書くが、前者が「恐怖」で、後者が「畏敬」になる。「恐怖」と「畏敬」がどう違うかというと、神が怒ると「恐怖」を感じる一方、いつも神に「畏敬」の念を抱くのである。だから、「恐れる」という感情は、神々しい。

 畏敬の念を抱き、そこで心から愛情が生まれる。それが、「敬愛」なのである。経営者が従業員に「畏れられながら、愛される」というのはこのことである。

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