マレー東海岸の旅(7)~コタバル戦争博物館で学ぶ「戦争」

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 8月18日(木)午前、コタバルの戦争博物館を見学。日本軍によるマレー奇襲上陸とマレー半島統治の史実を中心とした戦争博物館である。

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 1941年12月8日未明、日本軍が英領マレー半島東北端のコタバルに接近。1時30分に上陸。コタバル上陸が真珠湾攻撃より1時間以上も早いことから、太平洋戦争はある意味で、このコタバルが開戦の地とも言えなくはないだろう。

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 年明けて1942年1月12日、日本軍は一路南下し、英軍が防衛を放棄したクアラルンプールを占領。1月31日に半島南端のジョホールバルに突入。世界の戦史上でも稀有の快進撃であった。ついに2月15日、英軍が日本軍に降伏し、日本軍はシンガポールを占領した。

 「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長き歴史の終焉を意味する」。フランスのシャルル・ド・ゴールはこう語る。

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 マレー半島では日本軍が現地住民の支援をも多く受けた。アメリカの女性歴史家ヘレン・ミアーズがその著作に次のように記述する――。

 「アジア大陸および英仏蘭の植民地における日本の最初の勝利は、現地民の協力者達の活動によって獲得されたものである。二、三の著しい例外はあるが、日本の緒戦の成功は、ほとんど戦いらしい戦いをせずに獲得された。アジアにおけるヨーロッパの『所有主』たちは、日本軍に追われるというよりも、むしろ現地民の敵愾心に抗しかねて引き上げた」

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 日本軍によるマレー半島の上陸を、英植民地支配に苦しめられていたマレー人現地住民は真摯に歓迎した。彼らが日本軍に食糧を提供し、ジャングルの迷子にならぬよう地理の案内もし、軍需物資の運搬まで手伝った。当時、少年だったラジャー・ダト・ノンチック元上院議員はこう振り返る――。

 「私たちは、マレー半島を進撃する日本軍に歓呼を上げた。敗れて逃げてゆく英軍の姿を目の当たりにして、いまだかつてない興奮を覚えた。長きにわたりアジア各国を植民地支配してきた西欧の勢力を、日本軍が追い払った。白人には到底勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれた」

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 もちろん、抗日の勢力はあった。マレー半島における抗日闘争について、コタバルの戦争博物館の展示を見る限り、以下のように記載されている(要旨)――。

 日本軍がマレー半島に上陸し、敗退した英国は豹変した。一転して、英植民時代に弾圧していた南洋共産党(後日、マラヤ共産党(MCP)に改称)を支援する姿勢に転換し、華人の反日感情に便乗して、抗日活動を行わせた。

 英植民地当局は逮捕していたMCPの幹部を釈放し、彼らは武力組織・マラヤ人民抗日軍(MPAJA)を結成して、華人住民の支援を受けて抗日ゲリラ活動を展開した。

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 マレー半島占領中の日本軍は、現地民であるマレー人を優遇し、イスラム教を容認し、マレー系住民の教育を強化して人材育成にも取り組んだ。その一環として、シンガポールに創立された「昭南興亜訓練所」やのちにマラッカに開設された「マラヤ興亜訓練所」では、選抜されたマレー民族の優秀な若者たちが教育訓練を受けた。そこから送り出された卒業生は1000名以上に上る。その卒業生の多くがマラヤ義勇軍やマラヤ義勇隊の将校となり、マレーシアの独立と、その後の新しい国づくりの中核となった。

 マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏はこう語る。「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、民族独立のためにどうしても必要だった。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのだった」

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 マレーシア外務省情報センター所長ニック・モハマド氏は、戦争の真義に触れてこう指摘する。「戦争は誰だって嫌いだ。どんな人にも苦痛を与える。しかし、戦争によって人々に民族としての政治的意識が芽生えた。それまで政治をまったく考えることはなかったが、民族意識が高まり、政治的な変革を意識するようになった。独立という意識に目覚めたのである」

 戦争は悪い。侵略戦争をした日本は悪い。そういう側面は否定するつもりも、美化するつもりもない。ただ、世の中は善悪の単純対極化できるほどシンプルではない。いろんな側面を客観的に見て多面的に評価することこそが、歴史に対する責任でもあり、また人間成熟の証でもある。

 歴史は、ある意味でもっとも政治的に利用されやすい性質を有している。ただ、歴史を純粋たる歴史として語る、そうした真摯な姿をもつことには多大な勇気と胆力を必要とする。既得利益や自身の地位にしがみつく政治家や利益団体が存在する限り、善悪の絶対的分断や勝者の論理に基づく愚民化政策を放棄することは到底ありえない。

 マレー半島東海岸の辺鄙な街に立つこの小さな戦争博物館で学べるものは、戦史だけではないはずだ。

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